紀藤元之介先生
- 2013/11/06
- 13:55
演壇に立つ紀藤先生
四天王寺に供養塔を建立された紀藤元之介先生(1918~1981年)は、加藤大岳先生(1907~1983年)の戦前からの門人であり、大阪に移られてからは実占研究会を主宰されて、関西の易学界をリードされた人物である。
四遍筮法(元之筮法)と呼ばれる独自の筮法を考案したことでも有名であり、これは本卦と之卦を別々に立卦する方法で、他の筮法に比べて自由度の高い得卦となることに特色がある。
紀藤先生は、大阪で活躍された為、関西のイメージが強いが、お生まれは神奈川の綾瀬で、本名を木藤源治(げんじ)といった。
1926年に松平成象という卜者から白蛾流の三変筮を学んだのが易人生のスタートで、その後真勢易を知り、この辺りから本格的に取り組まれるようになったらしい。
暫くして、『易学研究』の前身となる『神秘』が創刊され、汎日本易学協会が発足し、加藤大岳先生の最初期の門人として易を学ばれる。
加藤先生が多くの文学者と交流を持たれたように、若き紀藤先生も中村光夫、大岡昇平、深田久弥らと交流されたという。
1938年、『易学大講座』の第一巻が世に出た年、出征して中国に渡り、二年後に帰還されるも、ほどなくして再び応召され、武装解除までビルマでの戦闘に参加されている。
1948年、関西に移住され、51年には春日大社が神易所を開設するに当たり、招かれてその所長になり、神職達に易を講義された。
52年、大阪は八尾の天台院住職として今東光氏が着任され、ここで「天台易学塾」を開講、同年いよいよ『実占研究』創刊となる。
その後、大阪に移住されてからは、真勢中州や水野南北の顕彰など大きなイベントを中心となって行われ、その目覚ましいご活躍により、紀藤先生は関西易学界の大御所的存在となられた。
70年代の半ばから体調を崩されるようになり、81年10月14日に逝去された。
戒名「藤樹院秀易浄元居士」
蒼流庵主人は、紀藤易の系統ではないが、大阪の地で易学振興に人生を捧げられた紀藤先生には多大なる敬意を払う者である。
心ある易人は、大阪に来られたなら四天王寺にお参りして、先生方の御霊前に手を合わせて頂きたい。
スポンサーサイト