鷹堂忌
- 2014/06/18
- 13:16
永杜鷹一先生(昭和12~13年頃、芝区三田の自宅にて。田村浩一氏提供)
本日、6月18日は、鷹堂永杜鷹一先生(1898~1946)の命日である。
永杜先生については、昨年末に林文嶺(1831~1907)の顕彰碑を紹介した際に、続けて記事にしたから、ご記憶の方もおられると思う。
永杜先生は、明治31年に岡山に生まれ、もと中島姓だったが、幼少の頃、田村家の養子となった。
新聞記者を経て、熊崎健翁先生(1881~1961)率いる五聖閣の講師として活躍し、健翁著『姓名の哲理』(1931年)などを代筆するも、熊崎先生の興した新宗教「ゝ心道」(ちゅしんどう)の設立を機に、袂を分かって、独自に活躍されたが、長野県に疎開中の昭和21年、享年49歳の若さで他界された。
あと、20年存命であったなら、その筋の大家として名を残されたことであろう。
令孫である田村浩一氏が保管されている遺品の日記には、晩年の活躍ぶりを示す新聞記事が転写されており、昭和10年5月12日の九州新聞(夕刊)には“昭和維新の新運命学・永杜氏来熊”とあり、更に“運命開發大講演会”(13日に開催)と題する記事と写真、そして同月15日の朝刊に於ける“昭和維新の新運命学の提唱、大盛況の永杜氏の講演”という二段抜きの見出し記事と壇上の写真が掲載されたらしい。
この講演会は、林永流運命学を掲げたもので、聴衆も300人を超える盛況ぶりだったといい、以降、各地より講演の申し入れがあり、この年は半年の間、講演の旅と化したそうだ。
『姓名の眞理』永杜鷹堂著・1955年刊
唯一公刊された著書が、『運命の哲理』(1938年刊・のち『姓名の眞理』と改題して再版)で、本書は姓名学の書と考えられているけれど、むしろ推命家の間で密かな人気があるという。
私は、四柱推命にはまるで疎いので、同書を論評出来るだけの能力を持たないけれど、巷の推命本よりも明晰で論理的な推命術が展開されているそうだ。
今回、令孫の田村浩一氏より貴重な資料類を提供して頂いたが、その中には色々と興味深いものが含まれていた。
上掲の写真は、その昔、占業者が届出制であった頃の鑑札で、話には聞いたことがあったが、初めて見るものであり、日本占術史上の貴重な資料と言えよう。
現存しているものは非常に少ないのではあるまいか。
これは『相法鳳凰之巻』と題した手稿で、この資料によって、永杜先生の林流における位置付けがはっきり判り、文嶺の後継者である鈴木亨斎の門であることが判明した。
推測ではあるが、連山塾というのは、鈴木亨斎から引き継いだものではなかったか。
永杜先生は、大正時代から終戦当時まで約 30 年間に渡って印刷界の第一線で活躍した吉原良三氏(1896~??)からの依頼で、昭和13年に『現證の心学』という著述の執筆に着手され、昭和21年に没するまで書き続けられたが、結局未完に終わってしまった。
この書物が完成せずに終わったことは返す返すも残念なことである。
永杜鷹一先生のご冥福をお祈りしたい。
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