佐藤一斎~東京易儒墓参録~
- 2014/06/21
- 15:59
佐藤家墓所(中央は一斎の三男佐藤立軒の墓碑・谷中天王寺墓地)
佐藤一斎(1772~1859)は、安永元年(1772)に美濃岩村藩家老・佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の藩邸下屋敷内で生まれ、名は坦、字は大道、通称は幾久蔵・捨蔵といい、一斎・愛日楼・老吾軒と号した。
寛政2年(1790)、岩村藩主松平乗保(1748~1826)の近侍の列に加わり、12、3歳の頃、井上四明(1730~1819)の門に入った。
長じて上方に遊学し、皆川淇園(1735~1807)、中井竹山(1730~1804)に学んだ後、林家七世・林錦峯(1767~1793)の門に入り、錦峯の没後は、林述斎(1768~1841)に学ぶ。
寛政12年(1800)、肥前平戸藩主松浦静山(1760~1841)に招かれて藩校維新館で教授した。
文化2年(1805)、林家の塾頭となり、述斎の嫡男の檉宇(1793~1847)や安積艮斎(1791~1861)、河田迪斎 (1806~1859)らを教えた。
文政9年(1826)、松平乗美(1792~1845)が岩村藩主になると、老臣の列に入り藩事を議したが、天保12年(1841)に述斎が没したので、幕府は一斎を挙げて昌平黌儒官とし、以後、多くの後進を指導することとなり、門下からは佐久間象山(1811~1864)・大塩平八郎(1793~1837)・渡辺崋山(1793~1841)らを輩出した。
一斎の著述では、西郷隆盛(1828~1877)の終生の愛読書でもあり、現在も根強い人気がある『言志四録』が特に有名だが、易書には、
『易学啓蒙欄外書』
『周易図考』
がある。
天王寺墓地にあるのは、墓碑ではなく、縁者七家族によって1990年に建立された記念碑であり、一斎の墓所は、六本木の深廣寺にある。
同寺には二代目将軍徳川秀忠(1579~1632)の正室、お江〈1573~1626)の灰塚などがあるが、残念ながら非公開である。
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