大田錦城~東京易儒墓参録~
- 2014/06/23
- 18:03
大田錦城墓(一乗寺・台東区谷中1丁目6−1)
大田錦城(1765~1825)は、明和2年に加賀大聖寺で生まれ、名は元貞、字は公幹、通称は才佐といい、錦城・春草堂・多稼軒と号した。
父の大田玄覚(1715~1778)が加賀大聖寺藩医であった為、はじめ錦城も医術を修め、のち京都に上がって皆川淇園(1735~1807)に師事するが意に満たず、天明4年(1784)、江戸に下って山本北山(1752~1812)の奚疑塾に入門するも、北山にも満足出来なかった為、以後独学する。
天明7年(1787)、足利学校に出向いて蔵書を閲覧した後、江戸浅草福井町に塾を開いた。
その才学を認めた幕府医官多紀元簡(1755~1810)の後援で、ひろく名を知られるようになる。
文化8年(1811)頃、三河吉田藩主松平信明(1763~1817)に仕えて経書を講説。
のち加賀藩主で兼六園を造成した前田斉広(1782~1824)に懇望されて加賀藩に仕え、同地で没した。
易書には、
『易象箋解』
『左占指象』
『周易会通纂要』
『周易聞書編』
『周易講義評林』
『周易参考』
『周易重言考』
『周易太極考』
『周易大伝占考』
『周易比例考』
などがある。
門下から海保漁村(1798~1866)を輩出した。
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