亀田綾瀬~東京易儒墓参録~
- 2014/06/25
- 23:42
亀田綾瀬墓(称福寺・台東区今戸2丁目5−4)
亀田綾瀬(1778~1853)は、安永7年に亀田鵬斎(1752~1826)の一子として江戸に生まれ、名は長梓、字は木主、通称は三蔵といい、綾瀬・学経堂・仏樹斎と号した。
家学を受け、15歳頃から父鵬斎に代わって講義を行ったという。
文政初年(1818)、下総関宿藩の儒臣となり、藩校教倫館学範を作った。
また、羽後秋田新田藩主佐竹義純(1802~1856)に招聘された。
易書には、
『学易漫録』
がある。
門人に芳野金陵(1803~1878)がいる。
亀田鵬斎墓
同寺の亀田家墓所には、綾瀬の父亀田鵬斎(1752~1826)の墓碑も現存しており、史跡としてはこちらの方が有名らしい。
鵬斎は、上野国邑楽郡富永村上五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町上五箇)の出身で、日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭を経て、井上金峨(1732~1784)の門人となり、私塾以外に、医学館においても教鞭を執ったが、寛政の改革が始まると幕府の正学である朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布されて迫害を受け、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。
門人に東条一堂(1778~1857)がいる。
柴田是真墓
亀田家墓所の近くには、柴田是真(1807~1891)の墓所もあり、こちらは偶然に知ったものである。
柴田是真は、幕末から明治にかけて活躍した漆工家で、日本画家としても知られている。
私には蒔絵のイメージが強いが、日本画にも優れた作品が多いようだ。
明治23年(1890)には帝室技芸員(現在で言うところの人間国宝)になっているから、当時の第一人者であったことが判る。
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