室鳩巣~東京易儒墓参録~
- 2014/07/11
- 18:31
室鳩巣墓(大塚先儒墓所・文京区大塚5丁目23)
室鳩巣(1658~1734)は、元治元年に医師室玄樸(1616~1684)の子として武蔵国谷中村(現・東京都台東区谷中)で生まれ、名は直清、字は師礼・汝玉、通称は新助といい、鳩巣・滄浪・静俟斎・駿台と号した。
寛文12年(1672)、加賀金沢藩主前田綱紀(1643~1724)に仕え、木下順庵(1621~1699)に入門。
正徳元年(1711)、同じ順庵門下である新井白石(1657~1725)の推挙により幕府儒員となり、朝鮮通信使応接などの任に当った。
同3年(1713)、駿河台屋敷を拝領。
徳川家宣、家継、吉宗の三代に仕え、享保の改革では合理的な人材登用を可能にする足高の制を設けるなど、改革を補佐した。
のちには吉宗・家重二代の侍講となる。
赤穂事件の際には『義人録』を著し、主従の義を重んじる立場で浪士を讃えた。
白石や鳩巣らの登場により、我が国の朱子学は、林家から木下順庵門下にその中心を移すことになった。
多くの門下を輩出したが、その内、中村蘭林(1697~1761)を以前ご紹介している。
易書には、
『易学啓蒙講義』
『易経広義』
『易伝講義』
『周易新疏』
などがある。
白石や鳩巣は、朱子学者である為、時に占筮も行ったようで、白石が鳩巣に宛てた享保2年2月26日付の書簡では、娘の縁談につき易占を試みたが、自分では判断がつかず、鳩巣に占考を頼んでいて、何だか微笑ましいエピソードである。
書簡中「此ところの道理のとり様、此方には私心にひかれ候故か、決しがたく候故、御決断頼み奉り候」とあり、当事者が筮を執ると判断に迷うのは今も昔も同じらしい。
白石のように経文を徹底的に読み込んでいても、いざ自分の事になると凡庸な占者となってしまうのだから、我々のような凡夫は推して知るべしである。
やはり自分のことは他人に観てもらうべきか。
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