大塚先儒墓所~東京易儒墓参録~
- 2014/07/12
- 10:10
尾藤二洲(1745~1814)や室鳩巣(1658~1734)らの墓所がある大塚先儒墓所は、豊島岡墓地の北東側に隣接し、丸ノ内線「新大塚」駅より徒歩約7分ほどの処に在る。
もともとは、徳川秀忠(1579~1632)と徳川頼房(1603~1661)の儒師であった人見ト幽軒(1599~1670)の邸宅があった場所で、寛文10年(1670)に道生が没した際、遺体を邸宅内に葬ったのが始まりとされている。
大正10年には国の史跡に指定されており、毎年10月に斯文会が先儒祭を行っている。
史跡指定を受けてしばらくは東京都が管理していたが、その後、墓地入口から50メートルほど南にある吹上稲荷神社に管理が委託され、現在は参拝の際に同神社に申し出て、墓所の鍵をお借りしなくてはならない。
この案内板の御蔭で、何処に誰がどの様な墓碑銘で葬られているか一目で分かる(無ければ結構大変)。
墓所内はドクダミが生え放題で湿気があり、夏場に参拝したので、蚊に刺されまくった。
木下順庵(1621~1699)は、松永尺五(1592~1657)に学んで金沢藩に仕え、徳川綱吉(1646~1709)の侍講をつとめた。
新井白石(1657~1725)や室鳩巣(1658~1734)、榊原篁洲(1656~1706)らの師である。
古賀精里(1750~1817)は、崎門学派に連なる儒者で、肥前佐賀藩校弘道館の教授を経て昌平黌の儒官となり、柴野栗山(1736~1807)・尾藤二洲(1745~1814)とともに「寛政の三博士」と称された。
古賀侗庵(1788~1847)は、精里の三男で、父と同じく昌平黌で教授した。
諸子百家に通じ、ロシア問題に深い関心を持ち、海防問題なども論じた。
岡田寒泉(1740~1816)は、闇斎系の朱子学者で、松平定信政権の下で学制改革に関わり、昌平黌でも教授した。
代官としても活躍し、荒廃の進む農村の立て直しや人口回復に尽力し、当時の名代官の一人とされる。
「寛政の三博士」には、古賀精里の代わりに岡田寒泉を加えることもある。
号の「寒泉」は、以前ご紹介した懐徳堂の並河寒泉(1797~1879)と同じく、水風井九五の「井冽寒泉食」に由来するものであろう。
もともとは、徳川秀忠(1579~1632)と徳川頼房(1603~1661)の儒師であった人見ト幽軒(1599~1670)の邸宅があった場所で、寛文10年(1670)に道生が没した際、遺体を邸宅内に葬ったのが始まりとされている。
大正10年には国の史跡に指定されており、毎年10月に斯文会が先儒祭を行っている。
史跡指定を受けてしばらくは東京都が管理していたが、その後、墓地入口から50メートルほど南にある吹上稲荷神社に管理が委託され、現在は参拝の際に同神社に申し出て、墓所の鍵をお借りしなくてはならない。
墓所入口の石標
大塚先儒墓記
この案内板の御蔭で、何処に誰がどの様な墓碑銘で葬られているか一目で分かる(無ければ結構大変)。
墓所内はドクダミが生え放題で湿気があり、夏場に参拝したので、蚊に刺されまくった。
木下順庵墓
木下順庵(1621~1699)は、松永尺五(1592~1657)に学んで金沢藩に仕え、徳川綱吉(1646~1709)の侍講をつとめた。
新井白石(1657~1725)や室鳩巣(1658~1734)、榊原篁洲(1656~1706)らの師である。
古賀精里墓
古賀精里(1750~1817)は、崎門学派に連なる儒者で、肥前佐賀藩校弘道館の教授を経て昌平黌の儒官となり、柴野栗山(1736~1807)・尾藤二洲(1745~1814)とともに「寛政の三博士」と称された。
古賀侗庵墓
古賀侗庵(1788~1847)は、精里の三男で、父と同じく昌平黌で教授した。
諸子百家に通じ、ロシア問題に深い関心を持ち、海防問題なども論じた。
岡田寒泉墓
岡田寒泉(1740~1816)は、闇斎系の朱子学者で、松平定信政権の下で学制改革に関わり、昌平黌でも教授した。
代官としても活躍し、荒廃の進む農村の立て直しや人口回復に尽力し、当時の名代官の一人とされる。
「寛政の三博士」には、古賀精里の代わりに岡田寒泉を加えることもある。
号の「寒泉」は、以前ご紹介した懐徳堂の並河寒泉(1797~1879)と同じく、水風井九五の「井冽寒泉食」に由来するものであろう。
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