東条一堂~東京易儒墓参録~
- 2014/07/19
- 11:39
東条一堂墓(妙源寺・葛飾区堀切3丁目25−16)
東条一堂(1778~1857)は、安永7年に上総夷隅郡八幡原村(現在の千葉県茂原市)の豪農で、江戸で医業もしていた東条自得の次男として生まれ、名は弘、字は子毅、通称は文蔵といい、一堂・瑶谷間人と号した。
寛政5年(1793)、京都に上って皆川淇園(1735~1807)に師事し、数年後、江戸に帰って門生に教授。
朝川善庵(1781~1849)・佐藤一斎(1772~1859)・尾藤二洲(1745~1814)らと親しく交わる。
文化初年(1804)、弘前藩校稽古館督学に迎えられたが、建議が容れられず、辞して江戸に戻る。
同8年(1811)、湯島で塾を開き、朱子学を排して原典を考究することを旨とした。
のち、神田お玉ヶ池に移る。
沼津藩主水野忠誠(1834~1866)に講説したほか、盛岡・庄内・敦賀・長島など諸侯の師事する者が多かった。
易書には、
『易経解』
『繋辞問答』
『周易標識』
がある。
境内には東条一堂の没後100年を記した顕彰碑もある。
木陰の湿った場所にあるからか、全体に苔むしており、それがまた何とも言えない奥ゆかしい景色を現出しているようだ。
安積艮斎墓
同寺には、安積艮斎(1791~1861)の墓所もある。
艮斎は、佐藤一斎(1772~1859)や林述斎(1768~1841)に学んで昌平黌の儒官となった人で、小栗上野介(1827~1868)や岩崎弥太郎(1835~1885)の師に当たり、吉田松陰(1830~1859)にも影響を与えたとされている。
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