並木栗水~千葉易儒墓参録~
- 2014/07/25
- 21:18
並木栗水墓(東禅寺・香取郡多古町寺作117)
並木栗水(1829~1914)は、文政12年に久賀村(現在の多古町)に生まれ、名は正韶、幼名は左門といい、栗水と号し、父の隆定は医家であった。
栗水は、大橋訥庵(1816~1862)の高弟で、訥庵の思誠塾では塾頭として師の代講も務めた。
訥庵が坂下門の事件を画策したかどで投獄されると、多くの門人は師に連座して捕えられることを恐れ、獄に行き見舞う者は誰も居なかったが、栗水だけは師の身を案じてたびたび獄舎を訪ねたという。
訥庵が他界した後、思誠塾の門人は残らず去ってしまった為、栗水はやむなく郷里に近い佐原へ帰り、師の遺志を継いで易学の研究を進めるかたわら、周囲の勧めもあって螟蛉塾を設けて門人の指導に当たるようになる。
その後、生家近くの御所台に螟蛉塾を移した。
明治元年、多古藩主久松勝行(1832~1869)は、栗水をわが子の教育の師として迎えている。
同じ頃、明治政府太政官から、新設の大学教官として召されたが、栗水は固辞した。
うつろな並木先生
螟蛉塾の名は全国に知られ、北は北海道から南は長崎から、多くの門人が集まったという。
その教育方針は、弟子は師の後姿を見て育つものであり、師と弟子が日々生活を共にしてこそ真の教化が生まれるというものであった為、文字通り寝食を弟子と共にする生活を送った。
栗水の門からは、文学博士・林泰輔(1854~1922)、大審院判事・寺島直(1837~1910)をはじめ、衆議院議員や貴族院議員を何人も輩出した。
螟蛉塾跡(香取郡多古町御所台171)
螟蛉塾は、並木一族の菩提寺である東禅寺(北総の古刹であったが、中世以来度々の火災に遭って荒廃し、現在は廃寺となっている)のすぐ近くで、跡地には昭和10年に「栗水並木先生之碑」が建立された(題字は徳富蘇峰)。
なお、公田連太郎先生(1874~1963)の『易経講話』では、日本人の註として栗水のものが最も多く引用されている。
『易経講話』の中で、公田先生は、根本通明の他にもう一人義理易の師がいることをほのめかしているが、或いはこれが栗水ではなかったか?
色々調べてみたが、はっきりしたことは判らなかった。
何方かご存じの方はご教示頂ければ幸いである。
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