石塚右玄
- 2014/08/12
- 18:21
どこかの国の第一書記にちょっぴり似てる石塚右玄
初めて粟島先生にお目にかかった際、
「一家を成した食養家で面識の無い者はほとんど居らないし、食養の分野で私の知らないことは何一つ無い」
と先生は言われた。
食養といえば、言わずと知れた桜沢如一(1893~1966)、そしてその源流である陸軍薬剤官石塚左玄(1851~1909)が有名であるが、粟島師は石塚左玄直系として沼田勇先生(1913~2010)作成の食養家系図にその名を連ねている。
ところで、多くの方が桜沢先生を石塚左玄の門人と勘違いしているようだが、実際には直門ではなく、後藤勝次郎の弟子に当たる。
粟島師が“左玄直系”たる所以は、左玄の実子である石塚右玄(1885~1926)の系譜であるからだ。
右玄(なんとも安直な名前)は、現在ではすっかり歴史の中に埋もれてしまったけれど、『石塚式食物治療法』『美人製造法』の著書がある。
系図から抜き出すと
石塚左玄 → 石塚右玄 → 石本喜代松 → 片瀬淡 → 粟島行春
となるのだが、この系図には少し間違いもあって、師は片瀬淡(1884~1948)の直門ではなく、間に人間医学社の大浦孝秋先生(1894~1979)が入る。
4年前、上野にある石塚左玄の墓所に参った際、墓碑に右玄の名前を見つけ、何故か非常に感慨深いものがあった。
石塚家墓碑
なお、石塚家墓所のある上野の光明寺は、こじんまりした寺域ながら、かなり格式の高い寺院らしく、石塚家以外にも、花火の玉屋(鍵屋~玉屋~、のアレ)や、水木しげるの妖怪画の元になった鳥山石燕(1712~1788)の墓碑が現存しており、少し前に移転されたそうだが、お茶漬けなどで有名な永谷園の創業者も同寺に眠っていたという。
川島四郎先生(右)との講演を終えた粟島先生(昭和47年)
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