『傷寒論』の種々のテキストについて①
- 2014/08/18
- 18:24
医書に限らず、写本によって伝えられた古典というものは、度重なる伝写によって多くの異本が生まれる宿命を持ち、『傷寒論』とてその例外ではない。
今日、張仲景の手になる医書は、『傷寒論』と『金匱要略』の二書が知られ、前者は急性病の治方を載せ、後者は雑病についての書とされているが、初めは『傷寒雑病論集』(傷寒卒病論集とする説も)という一つの書物だったと言われている。
張仲景の手になるオリジナルは早くに散逸してしまったが、その価値を見出した晋の太医令(実際には三国・魏の太医令だったと見るのが現在の定説)王叔和が、遺文を採集して整理した。
王叔和が居なければ、恐らく『傷寒論』は完全に亡失してしまっていた筈で、その点で王叔和こそ漢方の大恩人と評価しなければならない筈だが、王叔和が編纂した際に至る所に加筆増補して自分の意見を紛れ込ませ、仲景の意とは異なる文が大量に紛れ込んだと疑いを持つ人が以後続出することになり、王履の『医経溯洄集』(この本は岡本一抱による諺解書があるが、現在武蔵野の泰成堂書店が名古屋玄医による注解を525000円という途方もない高値で売りに出している。この本に蒼流庵主人は非常な興味を持っているが、財政事情は購入を許さない。誰かプレゼントしてちょ。)を嚆矢とする傷寒論の復元研究が始まることになる。
確かに太陽病から厥陰病までの部分と、先に出てくる弁脉法や平脉法、傷寒例などは明らかに雰囲気が違い、黄帝内経の影響が濃厚で、後から付け足された箇所だとする見方には説得力がある。
吉益東洞などはもっと疑り深く、傷寒論の中核でもある三陰三陽の六経分類でさえ、王叔和の創作とし、彼らの間では王叔和の心象はすこぶる悪いようだ。
今日、張仲景の手になる医書は、『傷寒論』と『金匱要略』の二書が知られ、前者は急性病の治方を載せ、後者は雑病についての書とされているが、初めは『傷寒雑病論集』(傷寒卒病論集とする説も)という一つの書物だったと言われている。
張仲景の手になるオリジナルは早くに散逸してしまったが、その価値を見出した晋の太医令(実際には三国・魏の太医令だったと見るのが現在の定説)王叔和が、遺文を採集して整理した。
王叔和が居なければ、恐らく『傷寒論』は完全に亡失してしまっていた筈で、その点で王叔和こそ漢方の大恩人と評価しなければならない筈だが、王叔和が編纂した際に至る所に加筆増補して自分の意見を紛れ込ませ、仲景の意とは異なる文が大量に紛れ込んだと疑いを持つ人が以後続出することになり、王履の『医経溯洄集』(この本は岡本一抱による諺解書があるが、現在武蔵野の泰成堂書店が名古屋玄医による注解を525000円という途方もない高値で売りに出している。この本に蒼流庵主人は非常な興味を持っているが、財政事情は購入を許さない。誰かプレゼントしてちょ。)を嚆矢とする傷寒論の復元研究が始まることになる。
確かに太陽病から厥陰病までの部分と、先に出てくる弁脉法や平脉法、傷寒例などは明らかに雰囲気が違い、黄帝内経の影響が濃厚で、後から付け足された箇所だとする見方には説得力がある。
吉益東洞などはもっと疑り深く、傷寒論の中核でもある三陰三陽の六経分類でさえ、王叔和の創作とし、彼らの間では王叔和の心象はすこぶる悪いようだ。
(続く)
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