康平本傷寒論について
- 2014/08/20
- 18:00
『康平傷寒論』は昭和11年の秋に、大塚敬節先生(1900~1980)が東大正門前の井上書店で見つけた傷寒論のテキストで、奥書に「康平三年二月十七日 侍医丹波雅忠」とあるによって、“康平本”や“康平傷寒論”の名で知られ、一説には空海が長安にて筆写して持ち帰ったものともいう。
今日我々が読んでいる『傷寒論』は、北宋の時代に林億らの校訂を経て出された所謂宋板で、宋改のもとになった原本はおろか、宋板そのものすら現存していないとされているのだが、康平本の奥書にある康平三年は西暦に直すと1060年、後冷泉天皇の御代に当たり、これを素直に信じるならば、宋改以前の古態を伝えていることになるのである。
大塚先生は、康平本こそは最古式の『傷寒論』であると考え、発見早々に『漢方と漢薬』誌上に「康平傷寒論に就いて」と題した一文を発表し、翌年には、巷間の『傷寒論』との異同を欄外に記入した『康平傷寒論』を日本漢方医学会から刊行したが、すぐさま康平本は偽書ではないかとする声が上がった。
医史学の泰斗・富士川游博士(1865~1940)は、丹波雅忠の奥書が平安朝の文体とは思えないことを根拠に鎌倉時代以降に書かれた偽書であるとした。
康平本について疑いを持った人は江戸時代にも居たようで、海保漁村(1798~1866)は、この書に「おこと点」のない点を指摘して、もし平安朝時代のものであれば、当然おこと点があるはずで、それがないのは、徳川時代に古方派が起こってからの偽書であろうと考えた。
大塚先生による康平本発表後、偽書と睨んだ人も大塚説を支持して最古本とした人も両方居るのだが、東亜医学協会は大塚先生のシンパの多い団体である為か、『漢方の臨床』を見る限り、掲載されるのは康平本に好意的なものがほとんどのようだ。
粟島先生はその昔、日本漢方協会において大塚先生の講義を受けており、康平本を随分熱心に研究された時期があったらしいが、読み進むにつれて内容に疑問を感じるようになり、最終的にはこれを偽書として退けられたようである。
今日我々が読んでいる『傷寒論』は、北宋の時代に林億らの校訂を経て出された所謂宋板で、宋改のもとになった原本はおろか、宋板そのものすら現存していないとされているのだが、康平本の奥書にある康平三年は西暦に直すと1060年、後冷泉天皇の御代に当たり、これを素直に信じるならば、宋改以前の古態を伝えていることになるのである。
大塚先生は、康平本こそは最古式の『傷寒論』であると考え、発見早々に『漢方と漢薬』誌上に「康平傷寒論に就いて」と題した一文を発表し、翌年には、巷間の『傷寒論』との異同を欄外に記入した『康平傷寒論』を日本漢方医学会から刊行したが、すぐさま康平本は偽書ではないかとする声が上がった。
医史学の泰斗・富士川游博士(1865~1940)は、丹波雅忠の奥書が平安朝の文体とは思えないことを根拠に鎌倉時代以降に書かれた偽書であるとした。
康平本について疑いを持った人は江戸時代にも居たようで、海保漁村(1798~1866)は、この書に「おこと点」のない点を指摘して、もし平安朝時代のものであれば、当然おこと点があるはずで、それがないのは、徳川時代に古方派が起こってからの偽書であろうと考えた。
大塚先生による康平本発表後、偽書と睨んだ人も大塚説を支持して最古本とした人も両方居るのだが、東亜医学協会は大塚先生のシンパの多い団体である為か、『漢方の臨床』を見る限り、掲載されるのは康平本に好意的なものがほとんどのようだ。
粟島先生はその昔、日本漢方協会において大塚先生の講義を受けており、康平本を随分熱心に研究された時期があったらしいが、読み進むにつれて内容に疑問を感じるようになり、最終的にはこれを偽書として退けられたようである。
スポンサーサイト