荻生徂徠の墓
- 2014/09/17
- 18:13
荻生徂徠墓(長松寺/東京都港区三田4丁目7−29)
永富独嘯庵(1732~1766)は、儒学の上では荻生徂徠(1666~1728)の学統である。
三田の長松寺にある徂徠の墓は、五年前にハカマイルを始めた際、第一カ所目に訪れた場所であるので、或る意味では最も思い入れの深い墓と言ってもいい。
徂徠は五代将軍徳川綱吉の侍医であった荻生方庵(1626~1706)の次男として生まれ、名は双松、初名は景丸・景元、字は茂卿・公材、通称は伝次郎・伝助・惣右衛門といい、徂徠・蘐園・庸庵・赤城翁と号した。
江戸の館林藩邸で生まれたが、父の貶謫に従い、元禄3年(1690)25歳まで上総国長柄郡本納村(現在の茂原市)で過ごした。
江戸に帰って、はじめ芝増上寺門前に私塾を開いて朱子学を講じ、のち柳沢吉保(1658~1714)に仕え、朱子学を否定する古文辞学(徂徠学)を提唱した。
宝永6年(1709)、柳沢藩邸を出て日本橋茅場町に家塾「蘐園」を開き、更に牛込に転居して、著述と門弟の教育に努めた。
多くの著述があるが医学に関するものとして『素問評』がある。
長松寺の墓所は、昭和24年に国史跡に指定された。
本姓は物部氏であり、墓碑銘にある修姓の“物”は物部の物である。
門下の易儒として、太宰春台と服部南郭を既に御紹介している。
荻生金谷墓(長松寺)
同寺にある荻生金谷(1703~1776)の墓は、東京易儒墓参録の中でご紹介しようかと思ったが、徂徠と一緒にご紹介することにした。
金谷は、徂徠の兄伯達の子として元禄16年に生まれ、徂徠の娘婿となって跡を継いだ。
大和郡山藩に仕え、藩校総稽古所の教授を務めた。
易書に
『洪範筮法』
『読易雑抄』
『読易草』
『入易門庭』
などがある。
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