山脇東洋の墓
- 2014/09/19
- 21:40
山脇東洋墓(真宗院/京都市伏見区深草真宗院山町26)
永富独嘯庵の医術の師は山脇東洋(1706~1762)である。
東洋は丹波の医師清水立安の長男として宝永2年に生まれ、名は尚徳、字は玄飛・子樹、通称は道作といい、初め移山、のち東洋と号した。
父立安が山脇玄修(1654~1727)の門人であったことから、享保11年(1726)に山脇家の養嗣子となる。
養祖父に当たる山脇玄心(1594~1678)は、曲直瀬玄朔(1549~1631)の門人で、山脇家は曲直瀬流の学統であり、玄心や玄修の玄字は玄朔に由来するものである。
玄心は、法印に叙せられ、勅命により養寿院の院号を賜っており、東洋も享保14年(1729)、法眼に叙せられ、養寿院の称号を継ぎ、墓碑銘にも刻まれている。
また、晩年の後藤艮山(1659~1733)にも学んだ。
東洋の業績中、最も有名なのは、宝暦4年(1754)に行われた刑屍解剖で、その著『蔵志』(宝暦9年刊)は、我が国解剖図誌の嚆矢とされる。
山脇家の墓所がある深草の真宗院には、かつて山脇家に関する膨大な資料があったらしいが、火災に遭って現存せぬのは返す返すも残念である。
山脇東洋肖像(『医家先哲肖像集』藤浪剛一編より)
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