山脇東洋観臓之地
- 2014/09/20
- 11:52
山脇東洋観臓記念碑(中京区六角通神泉苑西入南側)
臨床重視の古医方家であった後藤艮山に学んだ東洋は、次第に人体解剖に関心を抱くようになったが、当時の倫理観では人体解剖は到底許されざる行為であり、官の長く禁制とするところであった。
そこで東洋は、人体と構造が類似すると言われていたカワウソを何匹も解剖してみたが、研究を重ねるにつれ、中国古来の五臓六腑説に対する疑問は深まるばかりだった。
東洋の門人である小杉玄適(1730~1791)は、小浜藩医原松庵、伊藤友信との連署で京都所司代酒井忠用(1725~1775)に願い出て、解剖の許可を受けることに成功し、東洋主宰の人体解剖が実現する運びとなった。
宝暦4年(1754)閏2月7日、国事犯やキリシタン、女囚を含め多くの罪人が収容されていた六角獄舎と呼ばれる牢屋敷において、斬首された屍体を用い、我が国初の人体解剖が行われた。
5年後に東洋が著した『蔵志』は、人倫にもとるとか、誤りが多いとか、実際の臨床に益がないとかの批判はあったが、兎にも角にも本邦初の解剖書であって、杉田玄白(1733~1817)らによる『解体新書』翻訳の大きな動機となり、我が国の実証的近代医学の萌芽となったことは否定出来ず、日本医学史上の快挙であることは間違いない。
昭和51年には、日本医師会・日本医史学会・日本解剖学会・京都府医師会が発起団体となって、全国の有志を募り、かつての六角獄舎の跡地に「山脇東洋観臓之地」と刻まれた立派な顕彰碑が建てられた。
京都の番地は地図上のポイントをググるのが面倒だが、「デ・リード四条大宮」というマンションの前に在るので、これを目印に探されると良いだろう。
罪人どもよ、安らかに眠れ!
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