香月牛山の墓
- 2014/09/23
- 13:48
香月牛山墓(円応寺/北九州市小倉北区清水4丁目5-1)
永富独嘯庵(1732~1766)は、吉益東洞(1702~1773)らと共に、古方派の名医の一人として有名であるけれど、治験例を読んでみると、その薬方運用は東洞らのそれとは随分違っていて、むしろ後世方のニュアンスが強い。
これは師の山脇東洋(1706~1762)も同様であって、古方派といえども、東洋の場合は家学が曲直瀬玄朔(1549~1631)を淵源としているから、その影響が自然に出て来たものと思われる。
独嘯庵の場合も、養父永富友庵が香月牛山(1656~1740)の門人であり、東洋の門に入るまで後世方の医学を徹底的に学んでいたところから、古方派に転身した後も薬方運用にはやはり後世方の影響を残しているようだ。
独嘯庵は、香月牛山の孫弟子でもある訳であるが、今日その著述が読まれているのは、『牛山活套』『牛山方考』『婦人壽草』など、牛山の方かもしれない。
香月牛山は、明暦2年に、香月六郎重貞の次男として筑前遠賀郡香月(現在の北九州市八幡西区)に生まれ、名は則真、字は啓益、通称は貞庵といい、牛山・披髪翁と号した。
初め貝原益軒(1630~1714)に儒学を、ついで鶴原玄益に医学を学ぶ。
豊前中津藩に医官として仕えたのち、京都に赴いて医業に従うこと17年、貴顕名流を治療して名を馳せた。
その後、甥の則貫が小倉藩主小笠原氏に聘せられたのに伴い、享保元年(1716)61歳の時、小倉に移り、医仙堂を号とした。
生涯妻帯せず、甥の則貫を養嗣としたが、則貫が牛山に先立って没した為、門弟の則道を養嗣として、香月家を継がせた。
香月牛山肖像(『医家先哲肖像集』藤浪剛一編より)
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