亀井南冥の墓
- 2014/09/26
- 18:20
亀井南冥墓(浄満寺/福岡市中央区地行2丁目3−3)
貝原益軒の墓所がある金龍寺の北側に明治通りを隔てて隣接する浄満寺には、亀井南冥および昭陽の墓所がある。
亀井南冥(1734~1814)は、大儒としての名声が余りに大きい為に、医家としての南冥に注目する人は多くはないが、永富独嘯庵(1732~1766)の高弟として、小石元俊(1743~1809)、小田享叔(1747~1801)と共に「独嘯庵門下の三傑」に数えられた程の人物であり、九州では「肥に椿壽あり、筑に南冥あり」とされて、村井琴山(1733~1815)と並び称されることもあった。
寛保3年、筑前国早良郡姪浜村に生まれ、名は魯、字は道載、通称を主水といい、南冥・信天翁・狂念居士・苞楼・魯玄南溟と号した。
14歳の時、徂徠学派の学僧大潮(1676~1768)より儒学を学び、京都に出て初めは吉益東洞(1702~1773)の門人となるが、医説に反撥して去り、永富独嘯庵の門に入って頭角を現す。
『漫遊雑記』の序文や独嘯庵の碑文は、南冥の手に成るものである。
その後、福岡藩に帰って父と共に医業の傍ら私塾蜚英館を経営し、のち藩儒となり、天明3年(1783)には甘棠館の総受持となる。
天明4年(1784)、志賀島で「漢委奴國王」と刻まれた金印が発見されると、南冥は『後漢書』東夷伝を引用して金印の由来を説明し、『金印弁』を著して金印についての研究を行った。
この金印は教科書にも載っているから、子供でもその存在を知っているが、形式や発見の経緯に不自然な点がある為、昔から贋作説も唱えられていて、新しいところでは、三浦佑之氏が『金印偽造事件 ―「漢委奴國王」のまぼろし』を書いており、金印は南冥らによる偽造品であるとしている。
その後、寛政異学の禁の余波を受け、寛政4年 (1792)に蟄居処分となり、文化11年(1814)、居室出火の際に焚死した。
亀井昭陽墓
亀井昭陽(1773~1836)は、南冥の長男として安永2年に生まれ、名は昱、字は元鳳、通称を昱太郎といい、昭陽・空石・月窟・天山遯者と号した。
寛政4年(1792)に家督を相続し、藩儒となるが、同10年免官となり、享和元年(1801)家塾百道社を開いた。
易書に
『周易考』
『周易僭考』
などがある。
門下から広瀬淡窓(1782~1856)、広瀬旭荘(1807~1863)らを輩出した。
亀井家墓所
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