奥村良竹顕彰碑(常光寺/福井県南条郡南越前町上平吹)
独嘯庵の吐方の師である奥村良竹(1686~1760)は、貞享3年に越前国府中松森村(現在の福井県武生市)に生まれ、名を直、号を南山といった。
幼少より山崎良伯に医術を学ぶが、奥村家の貧窮を救う為、師の下を去って大阪の商家へ年期奉公に出なければならなかった。
商道に入るも医学の道を捨て切れず、良伯の求めに応じて郷里に帰り、後に医家として独立した。
医家の
後藤艮山(1659~1733)はもとより、儒医の
並河天民(1679~1718)、儒者の
伊藤東涯(1670~1736)らとも交友を持っていたことから、かなり教養ある医家であったことが窺われる。
最も影響を受けた医書は張子和(1156~1228)の『儒門事親』で、特に類書を漁って専門的に研究したのは、漢方の汗・吐・下・和の四つの治法中の「吐方」であり、越前産の甜瓜三種の内、青色のものの蔕が特に吐方に用いて薬効が高い事を発見した。
試行錯誤して独自の吐方を完成させたが、非難する者少なからず、患者の来訪無き日も続いたという。
しかし、自己の信ずる道を曲げずに研鑽を続けたので、遂には名声高まり、数百人の門人を抱えるまでになった。
独嘯庵の他に、加賀の
荻野元凱(1737~1806)も一時良竹のもとで学んでいる。
良竹は吐方研究の先駆者として其の名が知られているが、自身は著述を遺しておらず、其の吐方の実際については、永富独嘯庵の『吐方考』や荻野元凱の『吐方編』など門人の述作から窺い知るのみである。
墓所は、北陸本線王子保駅から南東へ徒歩30分程下った上平吹という小さな集落の中の真宗常光寺にあり、奥村家墓所には、昭和6年に建立された立派な顕彰碑が聳えている。
この碑は同じく墓所内にある奥村先生功徳碑の由来を記したもので、功徳碑は実はもと京都の東山一心院に
田中適所が建立したものを土肥慶蔵が発見して、奥村家の墓所に移転したものであり、オリジナルの剥落甚だしきに至って、昭和36年に再建されたのが現在の碑。
功徳碑
奥村家墓所の隅に、古い墓碑が何基か並んでおり、その内の一つが良竹のもののようであるが、碑刻が今一つ読み取れず、墓碑を確定するに至らなかったのが残念であった。
奥村良竹墓(※2016年10月7日リベンジ)
注意を促したいのは、王子保駅の近くには、もう一軒同じ常光寺という寺院があって、こちらはJR線の西側にある。
蒼流庵主人が2009年に訪れた際は、はじめ間違えてこちらの常光寺へ行ってしまった。
なお、“良竹”の号は近年まで代々受け継いでおられたようで、現在も御子孫が武生にて眼科を開業されている。
漢方は用いず(さすがに吐方は眼科では出番が無かろう)、普通の現代医家らしいが、こういう例は不思議と少ないので、我々としては嬉しいところだ。
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