華岡青洲の墓
- 2014/09/28
- 08:21
華岡青洲墓(華岡家墓地/和歌山県紀の川市西野山)
テレビドラマ化もされた有吉佐和子氏(1931~1984)の小説『華岡青洲の妻』によって、漢方に特別の関心を持たない人々にまで其の名が知られるようになった華岡青洲(1760~1835)は、宝暦10年に紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)で生まれ、名は震、字は伯行、通称を雲平・随賢(三世)といい、青洲・春林軒と号した。
初め家学を受け、天明2年(1782)京都に上って吉益南涯(1750~1813)より古方を、大和見水(1750~1827)よりオランダ外科を学ぶ。
同5年、帰郷して家業を継ぎ、臨床外科を研究しつつ、漢蘭折衷の医方を実践した。
外科手術による乳癌摘出の可能性を記した永富独嘯庵の『漫遊雑記』に触発され、尋常ならざる労苦の末に漢方による麻酔薬「通仙散」を完成させる。
文化元年(1807)、全身麻酔下での乳癌の摘出手術に世界で初めて成功したことは余りにも有名である。
全身麻酔による手術という偉業にばかりスポットライトが当たりがちな青洲であるが、既成の方剤に加減して考案した紫雲膏や十味敗毒湯は今日でも用いられる優れた処方であり、正統な漢方家としても優れた医術を有していた名医であった。
天保6年(1835)に76歳で死去し、自宅裏山の華岡家墓地に葬られた。
華岡青洲墓誌銘碑
華岡家墓地に入って、まっさきに目につく大きな石碑は、門人たちが青州の遺徳を追慕し、遺子の修平(号鷺州4代随賢)及び準平(号南洋)等と相談して、儒者・仁井田好古(1770~1848)の撰書を得て建立されたものである。
なお、かつて、紀伊国へ続く街道の宿場町として栄えた富田林市(有名なPLの塔がある)に華岡という場所があり、青洲の一族はこの村の出であるというので、現地調査をしてみたことがあるが、当時は華岡の名を冠したものは見当たらなかった。
今調べてみると、地図上に「花岡ハイツ」というのがあり、この辺りだろうかと見当をつけている。
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