華岡鹿城の墓
- 2014/09/30
- 18:16
華岡鹿城墓(華岡家墓地/和歌山県紀の川市西野山)
青洲の弟である華岡鹿城(1779~1827)は、安永8年に生まれ、名は文献、字は子徴、通称を良平といい、鹿城・中洲と号した。
早くに父を失い、兄の青洲に養育され、のちその養嗣子となる。
寛政8年(1796)京都に赴き、吉益南涯(1750~1813)に古医方を、佐野山陰(1751~1819)に儒学を学ぶ。
文化元年(1804)に帰郷して青洲より華岡流外科を修得した後、泉州堺、次いで大阪中之島で開業した。
外科手術の評判が高く、合水堂を設け、後進の指導にも尽力した。
合水堂は、春林軒の大阪分校で、青洲人気が高まりすぎて患者や入門者をさばき切れなくなって作られたものらしい。
合水堂は、緒方洪庵(1810~1863)の適塾と近い場所にあり、門人同士は敵対して犬猿の間柄であったらしいが、温厚篤実で知られる洪庵とは、医学上の意見を交換したり、患者を紹介しあったりするなどの交流があった。
鹿城の墓は大阪市天王寺区の円珠庵にもあり、或いはこちらが真墓かもしれない。
ただし、参拝出来るのは、毎年1月25日の契沖忌のみである。
華岡鹿城肖像(『医家先哲肖像集』藤浪剛一編より)
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