曲直瀬道三の墓
- 2014/10/18
- 14:49
曲直瀬道三墓(十念寺/京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町13)
粟島先生は、永富独嘯庵や吉益東洞に私淑され、臨床上も特に東洞の薬方運用を踏襲されていたが、東洞のように後世方を激しく排撃するような立場はとられなかった。
その点では、折衷派と言えるかもしれない。
実際、曲直瀬道三の『切紙』などを講座のテキストに用いられたこともあったようだ。
今日は、少し曲直瀬道三(1507~1594)について、その墓碑と共にご紹介する。
道三は、永正4年に京都柳原で生まれ、本姓は堀部、名は正盛・正慶、字は一渓、通称を道三といい、等皓・雖知苦斎・翠竹斎・翠竹院・盍静翁・寧固・啓迪庵・亨徳院と号した。
十代で仏門に入り、のち足利学校に入って、同校の先輩でもある田代三喜(1465~1544)に医学を学ぶ。
天文14年(1545)京に帰り、医術を施すようになって急激に名声を広め、豊臣秀吉、毛利元就、三好長慶など多くの戦国大名より信用を得て治療に当たり、徳川幕府の時代になってからは、曲直瀬家を世襲の侍医典薬とする内規が定められ、これを基礎として曲直瀬一門は有無を言わさぬ日本最大の漢方流派として君臨することになる。
また、道三は、後進の指導の為、日本最初の医学校「啓迪院」を聚楽第近くの新町通り(現在の上京区新町通り上長者町下ルあたり)に建て、多くの門人を養成した。
天正12年(1584)に「ベルショール」の洗礼名を貰ってキリシタンに改宗したことがルイス・フロイスの『日本史』に見えるが、他に確たる証拠となる資料に乏しいことから、道三のキリスト教改宗を否定する見方もある。
否定説への反証の一つとして、多留淳文先生は隠れキリシタンの隠語としての“十”を墓寺が冠していることを挙げておられるが、蒼流庵主人も意を同じくする。
もう一つ秘かな注目を寄せているのが、現曲直瀬家の墓が在る文京区白山の臨済宗の寺院(公田連太郎先生の菩提寺でもある)から、嘗てキリシタン灯籠が地中より発掘されているという事実である。
初代曲直瀬道三顕彰碑
山門をくぐって墓地へ行く途中に鎮座して激しく自己主張するこの顕彰碑は、日本東洋医学会、日本医史学会、東亜医学協会の共催により1990年に建立されたもの。
曲直瀬道三供養墓(京都市北区大宮玄琢北東町9-8)
京都市北区の大宮玄琢北東町には、曲直瀬流の野間玄琢(1591~1646)によって建てられた道三の供養墓がある。
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