足利学校
- 2014/10/21
- 21:05
田代三喜や初代曲直瀬道三は足利学校の出身である。
足利学校は、室町時代から戦国時代にかけて隆盛を極め、当時は関東における事実上の最高学府であったと言って良い(創建年代については諸説あり、起源は足利時代よりもずっと古いとする説もあるようだ)。
足利学校が名を高め、その出身者が迎え入れられた大きな理由は易筮にあったらしく、占筮に通暁した人間が、武家の顧問的性格をもって迎え入れられ、激動の時代には特にその出身者の獲得合戦が行われたらしい。
周易は王弼本を用い、博士家の菅家の点に拠り、その解釈は王弼の注、孔穎達の疏をもとにし、程朱の伝義を参酌してこれを折中したという。
足利学校で易を学んで、晩年近江の永源寺に住し、周易の伝授と著述に従事した柏舟宗趙(1416~1495)という臨済僧がおり、その著『周易抄』は我が国における易学著述の嚆矢とされる(この『周易抄』は主として王弼の注、孔穎達の疏をもとにした講義案であり、間々程朱の新註が取り入れられている)。
足利時代が終焉を迎えて以後も学校は存続したが、徳川時代に入って世の中が安定してくると易学や兵学などの実践的学術の出番は少なくなり、朱子学の官学化は足利学校の衰退を決定的なものとした。
明治5年に廃校となったが、1980年代以降、史跡の保存整備事業が開始され、1990年には江戸時代中期の建物と庭園が復元された。
蒼流庵主人は、昨年12月に熊崎健翁先生のちゅ光台を散策した翌日、足を延ばして、足利学校を訪問することが出来た。
JR両毛線足利駅からは徒歩10分ほどの距離で、至る所に標識があって迷う心配は無い。
足利町は明治36年、足利学校の敷地内に、足利学校遺蹟図書館を設立し、これが栃木県内初の公共図書館である。
足利学校所蔵の『周易注疏』は、南宋時代の版本で国宝に指定されており、他にも『礼記正義』や『尚書正義』などが国宝指定を受けている。
校内にある孔子廟は、寛文8年(1668)に第13世庠主伝英元教の時に造営されたもので、中国明代の古廟を模した様式という。
天保2年(1832)、渡辺崋山(1793~1841)によって、廟内に安置された孔子像より胎内銘が発見され、天文4年(1535)に彫刻、納められたことが明らかとなった。
飽くまでも復元とはいえ、この空間で田代三喜や曲直瀬道三が勉学に励んだかと思うと感慨深いものがある。
足利学校は自学自習が基本で自分が納得した時が卒業という。
本来、学問とは自分自身の為にするものであるから、当然といえば当然なのだが、今日では学問とは就職して食いぶちにつなげる為のものでしかないようだ。
足利学校に徳川将軍の位牌とは一見妙な取り合わせだが、第9代庠主三要(1548~1612)は家康の信任が厚く、関ヶ原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立てて戦いに役立てたと言われ、その後も、年の初めにその年の吉凶を占った年筮を幕府に提出する習わしがあったという。
足利学校は、室町時代から戦国時代にかけて隆盛を極め、当時は関東における事実上の最高学府であったと言って良い(創建年代については諸説あり、起源は足利時代よりもずっと古いとする説もあるようだ)。
足利学校が名を高め、その出身者が迎え入れられた大きな理由は易筮にあったらしく、占筮に通暁した人間が、武家の顧問的性格をもって迎え入れられ、激動の時代には特にその出身者の獲得合戦が行われたらしい。
周易は王弼本を用い、博士家の菅家の点に拠り、その解釈は王弼の注、孔穎達の疏をもとにし、程朱の伝義を参酌してこれを折中したという。
足利学校で易を学んで、晩年近江の永源寺に住し、周易の伝授と著述に従事した柏舟宗趙(1416~1495)という臨済僧がおり、その著『周易抄』は我が国における易学著述の嚆矢とされる(この『周易抄』は主として王弼の注、孔穎達の疏をもとにした講義案であり、間々程朱の新註が取り入れられている)。
足利時代が終焉を迎えて以後も学校は存続したが、徳川時代に入って世の中が安定してくると易学や兵学などの実践的学術の出番は少なくなり、朱子学の官学化は足利学校の衰退を決定的なものとした。
明治5年に廃校となったが、1980年代以降、史跡の保存整備事業が開始され、1990年には江戸時代中期の建物と庭園が復元された。
蒼流庵主人は、昨年12月に熊崎健翁先生のちゅ光台を散策した翌日、足を延ばして、足利学校を訪問することが出来た。
JR両毛線足利駅からは徒歩10分ほどの距離で、至る所に標識があって迷う心配は無い。
立派な石標が御出迎えしてくれる。
420円を受付で支払い、入学証(参観券)を貰って、いざ入門!
足利町は明治36年、足利学校の敷地内に、足利学校遺蹟図書館を設立し、これが栃木県内初の公共図書館である。
足利学校所蔵の『周易注疏』は、南宋時代の版本で国宝に指定されており、他にも『礼記正義』や『尚書正義』などが国宝指定を受けている。
足利学校の歴代庠主(学長)の墓所で、墓碑はみな無縫塔(卵塔)である。
校内にある孔子廟は、寛文8年(1668)に第13世庠主伝英元教の時に造営されたもので、中国明代の古廟を模した様式という。
天保2年(1832)、渡辺崋山(1793~1841)によって、廟内に安置された孔子像より胎内銘が発見され、天文4年(1535)に彫刻、納められたことが明らかとなった。
復元された校舎
飽くまでも復元とはいえ、この空間で田代三喜や曲直瀬道三が勉学に励んだかと思うと感慨深いものがある。
校舎の内部
足利学校は自学自習が基本で自分が納得した時が卒業という。
本来、学問とは自分自身の為にするものであるから、当然といえば当然なのだが、今日では学問とは就職して食いぶちにつなげる為のものでしかないようだ。
校内には往時の様々な資料が展示されている。
徳川幕府歴代将軍の位牌
足利学校に徳川将軍の位牌とは一見妙な取り合わせだが、第9代庠主三要(1548~1612)は家康の信任が厚く、関ヶ原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立てて戦いに役立てたと言われ、その後も、年の初めにその年の吉凶を占った年筮を幕府に提出する習わしがあったという。
足利学校中興の祖・関東管領 上杉憲実公顕彰碑
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