曲直瀬玄朔の墓
- 2014/10/22
- 18:43
曲直瀬玄朔墓(祥雲寺/ 渋谷区広尾5-1-21)
初代曲直瀬道三(1507~1594)の養嗣子となって、二代目道三を名乗ったのが、曲直瀬玄朔(1549~1631)である。
玄朔は、天文18年に道三の妹・堀部左門親真の子として生まれ、名は正紹、幼名は大力之助、通称を道三(二世)といい、玄朔・東井・延命院・延寿院と号した。
天正9年(1581)に初代道三の養子となり、同14年には法印に叙せられる。
豊臣秀吉に仕え、九州・朝鮮にも従軍し、治療に当たった。
一時、豊臣秀次に連座して常陸水戸に配流となったが、後陽成天皇加療のため赦免され、のち徳川家に仕えて、江戸に居住した。
その著、『医学天正記』は世界初のカルテと言われている。
墓所のある広尾の祥雲寺は、嘗ての玄朔の下屋敷跡地に建てられている。
玄朔の子で三代目道三の玄鑑(1577~1626)は、朝廷から橘の姓を賜って、今大路家と称するようになり、三代続いて道三医学は隆盛を極めた。
しかし、残念ながら玄鑑は秀忠の命による東国巡視中に、玄朔に先立って死去している。
曲直瀬玄朔供養墓(京都市北区大宮玄琢北東町9-8)
先に挙げた曲直瀬道三供養墓に隣接する玄朔の供養墓である。
建立者の野間玄琢(1591~1646)は、玄朔の高弟で、秀忠の侍医として活躍し、自身の廟所でもある同地は元和元年(1615)に幕府より拝領した土地である。
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