岡本玄冶の墓
- 2014/10/24
- 18:11
岡本玄冶墓(祥雲寺/ 渋谷区広尾5-1-21)
祥雲寺には、曲直瀬玄朔の高弟であり、その娘婿でもある岡本玄治(1587~1645)の墓所もある。
岡本玄治は、天正15年に京都で生まれ、名を宗什・諸品、通称を玄冶といい、啓迪院と号した。
16歳で曲直瀬玄朔の門下に入って頭角を現す。
当時、日本漢方の頂点に居た玄朔が、自分の娘を娶せた位だから、どれほどの人物であったかが窺い知れる。
朝鮮から『医方考』『医学入門』『万病回春』の三部が舶載された際、玄朔は長沢道寿(?~1637)に『医方考』を、古林見宜(1579~1657)に『医学入門』を、玄冶には『万病回春』を与えたという逸話があるが、玄冶の医学にはこの『万病回春』の影響が強い。
慶長9年(1604)、伏見で徳川家康に拝謁し、元和4年(1618)には法眼に叙せられ、同9年、秀忠の侍医となる。
寛永5年(1628)には更に昇進して法印となり、その際、初代道三の院号「啓迪院」を勅許された。
更には家光の病を治した功により、千石の領地を得る。
『玄冶薬方口解』『玄冶方考』『家伝預薬集』など多くの著書を残し、正保2年に59歳で死去。
歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の一幕の舞台として知られる「玄冶店」は、現在の中央区日本橋人形町3丁目8番付近であるが、ここが嘗ての岡本玄冶の拝領屋敷で、昭和43年には明治百年を記念する石碑が建てられた。
スポンサーサイト