尾台榕堂の墓
- 2014/10/27
- 18:35
尾台榕堂墓(観音寺/台東区谷中5-8-28)
幕末から明治維新にかけて活躍した医家として、浅田宗伯(1815~1894)と双璧を成す尾台榕堂(1799~1870)は、寛政11年に越後国魚沼郡中条村で生まれ、名は元逸・逸、字は士超、通称を四郎治・良作といい、榕堂・敲雲と号した。
16歳より岑貉丘(1732~1818)の門人である尾台浅岳の門に入って古医方を学び、儒学を亀田綾瀬(1778~1853)に学んだ。
文政7年(1824)に一旦郷里に帰り、医業を営むが、師浅岳の没後、遺族の請いに応じて江戸に戻り、尾台家を継いだ(旧姓を小杉氏という)。
江戸に移って後、日に日に名声高まって、私塾尚古堂も多くの門人で賑うまでになり、65歳の時に十四代将軍家茂の侍医となった。
数年後、榕堂は隠居して、家督を師浅岳の嫡男良卿に譲り、明治3年に72年の生涯を閉じた。
『橘黄医談』『医余』などの著書があるが、もっとも有名な書は、言わずと知れた『類聚方広義』であろう。
『類聚方』は、吉益東洞原著の古方派必携の書であり、『類聚方集成』や『類聚方集覧』など多くの再編、再注釈の書物が現れたが、中でも『類聚方広義』は、もっとも広く読まれて今日も多くの漢方家を裨益し続けている。
榕堂の墓碑に隣り合わせて、榕堂に私淑した藤平健先生(1914~1997)による碑文が刻まれた顕彰碑が建てられている。
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