湯本求真の墓
- 2014/10/29
- 19:51
湯本求真墓(東町墓地/千葉県山武郡横芝光町)
和田啓十郎の門人の中で最も有名なのは湯本求真(1876~1941)であろう。
湯本求真は、明治9年に石川県で生まれ、名を四郎右衛門といった。
明治34年に金沢医学専門学校 (現金沢大学医学部) を卒業し、翌年、栃木県立病院に勤務した後、郷里である石川県七尾町に開業した。
日露戦争が勃発すると、徴兵副医官となって従軍し、戦争終結後の明治39年春には、勲六等に叙せられた。
明治43年に疫痢が大流行し、その際に長女を失うが、これをきっかけに求真の現代医学に対する信頼が揺らぎ始め、この頃に和田啓十郎の『医界之鉄椎』を読んで感銘を受け、以後漢方の研究に邁進するようになる。
その後、専ら文通によって啓十郎より教えを受けた。
明治の末年に神戸に移って、初めて漢方医として開業した。
大正9年に東京に出て開業し、診療する傍ら著述に励んで、昭和2年には『皇漢医学』の第一巻を世に問うた。
この『皇漢医学』は、まさに和田啓十郎の衣鉢を継ぐもので、後の昭和漢方に受け継がれて、漢方医学復興の原動力となった名著であり、中国や韓国でも訳出されて広く読まれた。
昭和19年の秋、九州に往診した帰り、姫路の旅館で急病を得て、世を去った。
墓所は、もとは浅草の正照寺にあったが、墓地の移転問題が起こった際、千葉の横芝へ移された。
横芝は嗣子一雄氏の夫人の郷里で、一雄氏も同地で逝去されている。
墓所は総武本線沿い、線路の南側にあるので、判りやすい。
墓所には、正照寺から移された湯本家先祖代々之墓と並んで、大塚敬節先生等が御遺族の快諾を得て昭和39年に建立された顕彰墓がある。
写真は、この顕彰墓であるが、建立から僅か半世紀しか経っていないにも関わらず、異様な風情を放っている。
湯本求真先生顕彰碑(金沢神社/金沢市兼六町1-3)
昭和55年には、兼六園にある金沢神社内に、「東西医学融合統一」と刻まれた求真の顕彰碑が建立された。
兼六園観光の際は是非立ち寄って頂けたらと思う。
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