大塚敬節先生顕彰之碑
- 2014/10/30
- 17:35
大塚敬節先生顕彰之碑(大塚家墓所内/多磨霊園)
大塚敬節先生(1900~1980)と言えば、言わずと知れた昭和漢方界の第一人者で、傷寒論研究から古医書の復刻、今日高血圧に常用されている七物降下湯の創方など、その業績は多岐にわたり、1978年には日本医師会より最高優功賞を受賞されている。
大塚先生は、明治33年に高知で生まれ、実家の大塚修琴堂医院は産婦人科であった。
熊本県立医学専門学校(現熊本大学医学部)を出て医師となり、大正12年に実家の医院を継ぐ。
中山忠直の『漢方医学の新研究』(1927)を読んで漢方に関心を持つようになり、昭和2年から3年にかけて順次刊行された湯本求真(1876~1941)の『皇漢医学』を読んで深く傾倒し、同5年に周囲の反対を押し切って高知の医院を閉め、上京して求真に入門した。
翌年、東京牛込区船河原町に漢方医として開業する。
古方からスタートした先生であったが、後世方に属する一貫堂の矢数先生らとも積極的に交流し、昭和9年には大塚先生、矢数道明先生、清水藤太郎先生らが中心となり、日本漢方医学会を結成し、月刊誌『漢方と漢薬』を創刊、この流れが昭和漢方の復興と隆盛に大きな役割を果たすことになった。
昭和16年、矢数道明先生、木村長久先生、清水藤太郎先生らと共に、『漢方診療の実際』(南山堂)を刊行し、これは今日の病名漢方のはしりとして批判も多いが、良くも悪くも漢方医学の普及に大きな役割を果たした本には違いない。
戦後は日本東洋医学会の設立に尽力され、昭和32年には理事長に就任されている。
同年、漢方診療施設としては日本初となる医療法人・金匱会中将湯ビル診療所(現金匱会診療所)を津村順天堂の自社ビルの一部を借り受けて開設、金匱会診療所はその後、娘婿の山田光胤先生を経て、現在は山田享弘先生に引き継がれている。
昭和47年、北里研究所附属東洋医学総合研究所(現北里大学東洋医学総合研究所)の設立に参画し、初代所長に就任され、その八年後、脳卒中により逝去された。
私の師は、かつて日本漢方協会において大塚先生の講義に列席されており、康平傷寒論を随分熱心に学ばれた時期があったようだが、後に大塚先生の漢方を疑問視されるようになり、晩年は特に批判的な立場をとっておられた。
顕彰碑裏面
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