堺半井家墓所(堺公園墓地)
- 2014/11/14
- 18:52
堺半井家墓所(堺公園墓地/堺市南区鉢ヶ峯)
長らく『医心方』を秘匿して来た半井家は、和気清麻呂(733~799)を家祖としており、清麻呂の四代後、時雨(899~965)は医術に長じ、医博士、典薬頭に任ぜられ、それ以後累代典薬頭を世襲した。
蕃別の丹波氏より、むしろ神別の和気氏の方が、家格は上であったが、康頼以後は丹波氏が重用されていた。
『医心方』を下賜された半井瑞策(1522~1596)の父・明親( ?~1547)は、永正年間に入明して明医学を学んだ人で、御所の西隣の邸宅内に清井があり、これを半分に仕切って一つを調剤用に、残りを家事用に用いたことから、後柏原院(1464~1526)はこれを「半井」と名付けられたので、明親の代に和気より半井と改姓した。
明親の父・利長(?~1507)は、晩年は堺に隠居し、これが堺半井家の始祖である。
堺半井家の人々は、堺の経済的また文化的環境に恵まれ、医業ばかりでなく、和歌・俳諧・茶道に秀でており、明親の娘と結婚した半井宗洙(?~1586)の父は連歌師として有名な肖柏(1443~1527)で、また半井云也(1568~1636)は津田宗及(?~1591)の娘を娶っている。
半井家に限らず、当時は応仁の乱によって京都が荒廃し尽くした為、様々な文化が堺に避難して来たもので、半井氏もその一つだった訳だ。
半井家には、越前半井家や今治半井家、萩半井家といった多くの分流があるが、堺半井家は特に本家と関係が深く、本家に嗣子のない場合、堺半井家より入って後を継ぐということが行われた。
なお、杉立博士の『医心方の伝来』では、利長や明親は晩年に堺に隠棲したもので、永住して医業を開いたのは宗洙が最初であるため、堺半井家の当主は宗洙から数えている。
半井家の墓域
大通庵跡(堺市立熊野小学校正門前)
堺半井家の墓所は、もともと熊野町の大通庵に在ったのだが、同庵は廃寺になり、利長、明親、瑞策らの墓は鉢ヶ峰へ、云也、卜養らの墓は南宗寺の津田家墓域へ移葬された。
利長、明親、宗洙の合同墓
利長、明親、宗洙の三人は、現在合同墓となっている。
中央 →「開祖挙明道三居士」= 利長
右 →「三要澄玄居士」= 明親
左 →「海心宗洙居士」= 宗洙
なお、瑞策の墓碑は不明である。
墓域内で見つけた半井氏の墓碑であるが、右の養仙は瑞直(1711~1761)、左の養節は瑞庵(1677~1742)の号らしい。
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