平田篤胤
- 2014/11/17
- 17:48
平田篤胤肖像(『医家先哲肖像集』藤浪剛一編より)
粟島先生は、晩年、平田篤胤(1776~1843)に強い関心を示され、『志都能石屋』や『医宗仲景考』などを読んでおられた。
平田篤胤と言えば、復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人の一人に数えられ、明治維新の原動力となった国学者としてのイメージが強いが、同郷の安藤昌益と同じく医家としての顔を持ち、東洋医学の徒にも見過ごせない存在である。
羽後秋田藩士大和田祚胤(?~1819)の四男として生まれ、名は玄瑞・胤行、通称を正吉・半兵衛・大角といい、真菅屋・気吹屋等の号を用いた。
篤胤と称するようになるのは、享和年間以降で、死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
叔父に医学を学び、中山菁莪(1728~1805)に闇斎学を学んだ。
明治維新の原動力の一つである崎門の学がここでも見え隠れしているのは面白い。
寛政7年(1795)秋田を出奔、江戸に出て学業に励む。
同12年、備中松山藩軍学師(江戸定府)・平田篤穏の養子となり、医術を以て松山藩の江戸藩邸に出仕。
文化元年(1804)国学塾を開業。
文政6年(1823)に藩籍を離脱。
本居宣長(1730~1801)の影響を強く受け、文化2年、宣長の実子・本居春庭(1763~1828)に入門。
独自の神道学を樹立したが、その思想を不穏とされ、天保12年(1841)、幕府より著述差し止め・国元帰還を命ぜられ、失意のまま秋田で没した。
医学関係の著作として、
『金匱玉函経解』
『黄帝伝記』
『医宗脉言』
『傷寒雑病論集解』
『傷寒雑病論考文』
『志都能石屋』
『医宗仲景考』
などがあり、易学関連には、
『古易成文』
『古易大象経』
『三易由来記』
『太昊古易伝』
『彖易正義』
『八卦稽疑伝』
などの著述がある。
全集は戦前から何度も編まれているが、現在入手出来るのは名著出版『新修 平田篤胤全集』で、14巻には易と医学に関するものが収載されていて便利。
なお、篤胤の著述には、随所に天才的独創が光っているのだが、張仲景の正体が葛洪の従祖葛孝先であったり、伏羲が大国主命だったりと珍妙な結論が多い。
しかし、その珍妙な考証を読むのもまた楽しいのである。
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