本居宣長の墓
- 2014/11/19
- 18:17
本居宣長墓(樹敬寺/三重県松阪市新町874)
平田篤胤は、本居宣長(1730~1801)の没後の門人である。
宣長は、享保15年に伊勢国松坂で木綿商を営む小津家(小津安二郎の同族である)に生まれ、名は栄貞、通称を弥四郎・健蔵といい、芝蘭・瞬庵・春庵と号した。
本居は先祖の姓である。
「鈴屋」と名付けた書斎で講義を行ったことから、「鈴屋大人」と呼ばれた。
京都で堀元厚らに医学を学び、堀景山(1688~1757)に儒学・国学を学んだ。
宝暦7年(1758)、京都から松坂に帰って医家として開業し、そのかたわら『源氏物語』や『日本書紀』を研究する。
その後、賀茂真淵(1697~1769)の門に入り、『古事記』を本格的に研究するようになる。
一時、紀伊藩に仕えたほかは、生涯の大半を市井の学者として過ごしたが、非常に多くの門人を抱え、死去の際には487人に上ったという。
「されば才のともしきや、学ぶことの晩(おそ)きや、暇(いとま)のなきやによりて、思ひくづれて、止(や)むことなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくずるるは、学問に大にきらふ事ずかし」
(自分には才能がない、学問を始めたのが遅い、勉強する時間がないからといって、学ぶことを怠ってはいけない。如何なる場合も諦めず努力すれば、学問は出来るということを知るべきである。途中で挫折してしまうことが、学問の神様の最も嫌うところである)
私は宣長のこの言葉が好きだ。
本居宣長之奥墓(三重県松阪市山室山)
宣長は晩年に遺言書を認め、樹敬寺の隠居寺である妙楽寺の山内に墓所を定めた。
墓碑の字は宣長の直筆である。
樹敬寺の墓碑は、いわゆる詣墓で、本居家の菩提寺ではあるが、宣長が実際に葬られたのは、この山室山である。
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