粟島先生と五行論
- 2014/11/26
- 18:15
粟島先生は、晩年でこそ『黄帝内経素問』や『金匱要略』の講義をされていたけれど、ご自身が主催された研究会では随分長い間、只管『傷寒論』にのみ取り組んでこられた。
これは勿論、先生が私淑された吉益東洞や永富独嘯庵が『傷寒論』を最重視したことにもよるのだが、もう一つ、また別な理由があったという。
内経や難経、金匱といった古典は、その基礎を五行に置いている訳だが、先生は長らくこの五行について幾つかの疑問を抱いておられ、日本漢方協会の講座に通っておられたお若い頃は、高名な大家の先生方に、五行に関する疑問をぶつけて回ったそうであるが、終ぞ納得の行く回答が得られなかった為、個人的にそれらの古典を読むことはあっても、一般に講座のテキストにすることを控えられたとのことである。
そんな粟島先生の転機となったのが、農文協が1982年から始めた『安藤昌益全集』の刊行であった。
先生はこの全集に収載された昌益の諸論を読むに至り、五行に止まらず、東洋医学における様々な疑問が氷解して、素問や金匱といった古典を解説する準備が整ったことを晩年もよく述懐しておられた。
明日から、安藤昌益の事績と共に、その独特な五行論をご紹介して行きたい。
これは勿論、先生が私淑された吉益東洞や永富独嘯庵が『傷寒論』を最重視したことにもよるのだが、もう一つ、また別な理由があったという。
内経や難経、金匱といった古典は、その基礎を五行に置いている訳だが、先生は長らくこの五行について幾つかの疑問を抱いておられ、日本漢方協会の講座に通っておられたお若い頃は、高名な大家の先生方に、五行に関する疑問をぶつけて回ったそうであるが、終ぞ納得の行く回答が得られなかった為、個人的にそれらの古典を読むことはあっても、一般に講座のテキストにすることを控えられたとのことである。
そんな粟島先生の転機となったのが、農文協が1982年から始めた『安藤昌益全集』の刊行であった。
先生はこの全集に収載された昌益の諸論を読むに至り、五行に止まらず、東洋医学における様々な疑問が氷解して、素問や金匱といった古典を解説する準備が整ったことを晩年もよく述懐しておられた。
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