安藤昌益について
- 2014/11/27
- 18:55
安藤昌益(1703~1762)といえば、思想家としての側面ばかりが有名で、本業である医家としての顔はあまり知られていない。
医家であることを知る人すら少ないのではあるまいか。
味岡三伯の門に学んだというから岡本一抱とは兄弟弟子の間柄かと思っていたが、どうも昌益の学んだ三伯と一抱の学んだ三伯とは同じ人ではないらしい。
味岡三伯は三代に渡って医書の講説を得意とした京都の医家で、一抱が学んだのは初代三伯(1629~1698)で、昌益が師事したのは三代目三伯(1686~1738)と推定されている。
昌益の主著『自然真営道』は宝暦3年(1753)に刊本として世に出ているが、特に注目されて同時代に影響を与えることはなかったようだ。
ところが、明治32年、北千住に秘匿されていた稿本『自然真営道』(刊本『自然真営道』の原稿ということではなく、刊本の後に書かれたものと推測されている)を、昌益と同郷の狩野亨吉(1865~1942)が発見し、その後、在日カナダ大使であるハーバート・ノーマン(1909~1957)が、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』原書名:Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism(大窪愿二訳、上下、岩波新書、1950年)を著して一般に紹介したことで、世に知られるようになる。
しかし、これまでの昌益研究は、社会思想家としての面にのみ注意が集中していたきらいがある。
狩野亨吉によって東京帝国大学図書館に収められた稿本『自然真営道』の大半は、関東大震災によって焼失したが、貸し出されていた巻は難を逃れ、これにその後発見された、『統道真伝』や刊本『自然真営道』を合わせて上梓されたのが、農文協の『安藤昌益全集』である。
粟島先生は、「黄帝内経を読み切るには安藤昌益の理論による他はないのであり、昌益ほど内経を理解した医家は他に居ない。昌益の五行理論である進退四行八気説こそは五行を理解する鍵である」として昌益の理論による素問解説を二十年以上講義された。
農文協の全集を見ると、昌益は内経の理論を散々罵倒しており、その背景にある易経をもこれでもかとばかりにこき下ろしている。
しかし、それは徹底した批判を通して、その背後の真実性を発見せんとする方法論によるものと捉えるべきではなかろうか。
医家であることを知る人すら少ないのではあるまいか。
味岡三伯の門に学んだというから岡本一抱とは兄弟弟子の間柄かと思っていたが、どうも昌益の学んだ三伯と一抱の学んだ三伯とは同じ人ではないらしい。
味岡三伯は三代に渡って医書の講説を得意とした京都の医家で、一抱が学んだのは初代三伯(1629~1698)で、昌益が師事したのは三代目三伯(1686~1738)と推定されている。
昌益の主著『自然真営道』は宝暦3年(1753)に刊本として世に出ているが、特に注目されて同時代に影響を与えることはなかったようだ。
ところが、明治32年、北千住に秘匿されていた稿本『自然真営道』(刊本『自然真営道』の原稿ということではなく、刊本の後に書かれたものと推測されている)を、昌益と同郷の狩野亨吉(1865~1942)が発見し、その後、在日カナダ大使であるハーバート・ノーマン(1909~1957)が、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』原書名:Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism(大窪愿二訳、上下、岩波新書、1950年)を著して一般に紹介したことで、世に知られるようになる。
しかし、これまでの昌益研究は、社会思想家としての面にのみ注意が集中していたきらいがある。
狩野亨吉によって東京帝国大学図書館に収められた稿本『自然真営道』の大半は、関東大震災によって焼失したが、貸し出されていた巻は難を逃れ、これにその後発見された、『統道真伝』や刊本『自然真営道』を合わせて上梓されたのが、農文協の『安藤昌益全集』である。
粟島先生は、「黄帝内経を読み切るには安藤昌益の理論による他はないのであり、昌益ほど内経を理解した医家は他に居ない。昌益の五行理論である進退四行八気説こそは五行を理解する鍵である」として昌益の理論による素問解説を二十年以上講義された。
農文協の全集を見ると、昌益は内経の理論を散々罵倒しており、その背景にある易経をもこれでもかとばかりにこき下ろしている。
しかし、それは徹底した批判を通して、その背後の真実性を発見せんとする方法論によるものと捉えるべきではなかろうか。
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