昭和32年、水野南北の生誕200周年(南北の生年には宝暦7年説と宝暦10年説とがあり、この時は宝暦7年説から計算されたらしい)を記念して催されたのが「水野南北先生・生誕二百周年記念法要並びに遺徳顕彰講演会」で、これは紀藤元之介先生が中心となって挙行されたものである。
第一部法要は法輪寺で開催されているが、この7年後に新御堂筋建設の関係で、同寺が尼崎に移ったことは以前にも書いたことがある。
手元に、この法要の様子を収めた貴重な写真があるので、今日はそちらをお目にかけよう。
日本占術史の大変貴重な史料である。
これは尼崎に移転する前の“出世不動”である。
当時の様子を記録した史料は現在法輪寺にも残っておらず、特に重要なショットの一つであろう。
これは現在京都に移されている南北先生墳である。
以前の記事で、不動像そのものが墓碑で、南北先生墳はそれを示すために隣接して建立された石標ではないかという推測を披露したことがあるが、この写真でその推測が誤りでなかったことを確認出来た。
水野南北の墓碑に参拝する法要参加者諸氏
この当時は、不動尊像の下に南北の遺骨が眠っていたのであろう。
石灯篭の横に紀藤先生の姿が見える。
法要の盛況ぶりが伺える一枚で、昔は占業者といえども、先師先学に対する追慕の念が強かったことがよく分かる。
今ここに新御堂筋が走っているとはとても信じられないが、この昭和の気配もまた堪らない。
紀藤先生の頭の後方に加藤大岳先生が写っており、その左へ二人目が中村文聰先生である。
うなだれる尼僧(四代目南北の未亡人という水野秀順尼)の左に写っている町工場のオッサン風の男性が二代目玄龍子こと目黒八朗先生である。
大岳先生の背後に立つのが八木喜三朗先生で、さらに左へ二人目が、石本有孚先生。
午後から行われた第二部の講演会は、場所を東区島町にあった税理士会館に移して行われた。
その写真もあるが、こちらは割愛させて頂く。
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