浅田宗伯の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/16
- 18:12
浅田宗伯墓(谷中霊園/台東区谷中7丁目5−24)
浅田飴の発案者として有名な浅田宗伯(1815~1894)は、文化12年に信州筑摩郡栗林村(現在の松本市島立)で生まれ、名は惟常、字は識此、通称を宗伯といい、栗園と号した。
祖父東斎、父済庵ともに儒医であった。
はじめ高遠藩の藩医中村中倧(1778~1851)の門に入り、一年ほどして京都に上った。
中西深斎(1724~1803)の開いた塾で古方を、猪飼敬所(1761~1845)より経書を、頼山陽(1780~1832)より詩文を学んだ。
天保7年(1836)22歳の時、江戸に下り医業を開いた。
幕医・本康宗円の理解を得て(宗伯の名は本康宗円より一字を承けたものである)、多紀元堅、小島尚質、喜多村直寛ら医学館考証派の諸名家に紹介され、考証学派と親しく交わった。
慶応2年(1866)に徳川家の典医となって法眼に叙せられ、維新後の明治8年(1875)には宮内省侍医を拝命。
嘉仁親王(後の大正天皇)が生後間もなく病を得て危篤に陥った際、宗伯が治療に当たって之を救った事は有名であるが、一説にはこの時に用いた処方「走馬湯」によって後遺症を残したとも云われている。
著書には『傷寒論識』『勿誤薬室方函口訣』はじめ今日でも読まれているもの少なくなく、総計八十種類二百余巻になるといわれる膨大なものである。
『浅田宗伯』油井富雄著(医療タイムス社/2010年刊)
宗伯については、油井富雄氏(1953~2012)の『浅田宗伯~現代に蘇る漢方医学界の巨星~』が面白く有益な読み物になっている。
もと『週刊医療タイムス』に連載されていたものを単行本化したもので、幕末明治の混乱期における医学会の様子もよく分かる好著であるから、、宗伯に格別の関心を持たない人にも有益な書物であろう。
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