小野蘭山の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/23
- 10:34
小野蘭山墓(迎接院墓地/練馬区練馬4-27)
シーボルトによって“日本のリンネ”と讃えられた本草学の大御所・小野蘭山(1729~1810)は、享保14年に京都で生まれ、本姓は佐伯、名は職博、字は以文、通称を喜内といい、蘭山と号した。
父の師であった松岡恕庵(1668~1746)に本草学を学び始めるが、間もなくして恕庵が他界した為、以後は独学で本草学を学ぶ。
当時、我が国の本草学は李時珍(1518~1593)の『本草綱目』を切り貼りして為ったものが主流であったが、蘭山は積極的に山林に分け入って日本独自の本草学の完成を目指した。
私塾・衆芳軒を開いて多くの門人を育て、71歳まで京都に住んだが、寛政11年(1799)に幕命により江戸に移り住み、医学館教授方として本草学を講義することになった。
この医学館での講義録が孫の小野職孝(?~1852)によって纏められ、有名な『本草綱目啓蒙』として刊行されるのだが、本書は李時珍の影響を受けながらも独自の卓見に富み、日本人の手になる本草文献中最大の書物として後世の博物学に強い影響を与えた。
門人に山本亡羊(1778~1859)、多紀元堅(1795~1857)、木村蒹葭堂(1736~1802)等がいる。
戦前は浅草の誓願寺塔頭迎接院に墓所があったが、昭和2年の同院移転に伴い、練馬区豊島園駅近くの迎接院墓地に移葬された。
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