片倉鶴陵の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/24
- 18:24
片倉鶴陵墓(雑司ヶ谷霊園/豊島区南池袋4-25-1)
片倉鶴陵(1751~1822)は、宝暦元年に相州築井の木村家に生まれ、名は元周、字を深甫といい、鶴陵・静倹堂と号した。
幼少の頃、近くの医師片倉周意の養子となった。
12歳で江戸に出て、養父の旧師・多紀元孝(1695~1766)の学撲となって医を学び、元孝の孫・元簡(1755~1810)が井上金峨(1732~1784)の塾に通学していた関係で、そのお伴をすることで漢学を共に学ぶことが出来た。
鶴陵は13年間、多紀の門にあって、元孝の子・元徳(1732~1801)から主として教育を受け、25歳の時、白銀町で開業した。
天明6年(1786)頃、京都へ上って、賀川産科の門に入って玄迪(1739~1779)より産科を学び、再び江戸に戻って開業した。
鶴陵の学統は折衷考証派で、漢蘭折衷派と呼ばれる一群の医家の一人であるが、その中でも特に優れた業績を残している。
鼻茸を今日のように手術する方法を最初に行ったのは鶴陵であり、西洋における嚆矢であるロバートソンに先駆けること実に12年という。
また、鶴陵の著書『黴癘新書』は、ハンセン氏病と梅毒に関するものであるが、ニューヨークの医師アッシュメッドにその価値を認められ、明治27年には『アメリカ医師会雑誌』に4頁に渡って翻訳掲載されている。
墓所は、もと三田の大聖院にあったが、現在は雑司ヶ谷霊園に移葬されている。
いつ頃の移葬かは不明であるが、磯ケ谷紫江(1885~1961)の『大東京名家墳墓考』(1943年刊)の記述から、少なくとも昭和の初めには、移葬されていたことが分かる。
『大東京名家墳墓考』によると、明治19年に、三代元周の墓碑表面を削って、累代墓碑として合葬したものであるという。
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