奥田謙蔵の墓~横浜漢方史跡~
- 2014/12/25
- 18:27
奥田謙蔵墓(総持寺/横浜市鶴見区鶴見2-1-1)
いわゆる“千葉古方”の源流である奥田謙蔵先生(1884~1961)は、明治17年に代々高松藩医を務めた家系に生まれ、父方の祖父三井公圭は吉益家にて漢方を学び、長崎に遊学してシーボルトの塾にも学んだ人という。
大正4年に日本医学専門学校を卒業した奥田先生は、郷里に帰って父光景氏のもとで家学である古方医学の研鑽を積み、大正7年に上京して、小河内村の村医となった。
大正14年には、本郷の湯島新花町にて加藤玄伯氏と共同で医院を開業し、昭和4年に加藤氏が死去して以後、しばらく同医院の経営に当たるも、やがてここを離れて根津宮永町に移った。
終戦間近には栃木に疎開、終戦後数年してから東京に復帰するも、疎開中家を管理していた隣人が居座って動かなかった為、千葉の市川市に転居して、ここで晩年を過ごした。
著書は三冊あり、
『漢方古方要方解説』
『傷寒論梗概』
『傷寒論講義』
と、全て今日でも漢方家を裨益し続けている名著である。
門下には、和田啓十郎先生(1872~1916)の嗣子・正系先生(1900~1979)、藤平健先生(1914~1997)、小倉重成先生(1916~1987)、伊藤清夫先生(1910~1998)など、昭和漢方を代表する錚々たる顔ぶれが揃っている。
墓所は鶴見の総持寺にある。
戒名(和田正系先生による諡)から、奥田先生が易経を深く愛したことが感じられる。
本名の「謙」は大成卦の地山謙に由来するものであろうし、「公圭」は祖父の三井公圭から来たものであろうが、出典は風雷益三爻の辞だ。
隈本家之墓
奥田先生の墓所の近くには、隈本有尚の墓所もある。
隈本有尚(1860~1943)は、我が国における西洋占星術のパイオニア的存在であるが、数学者や天文学者など様々な顔を持っており、明治13年にはT・C・メンデンホール教授らと共に、富士山頂において本邦初の気象観測を行っている。
また、東大予備門教諭時代には、夏目漱石、正岡子規、南方熊楠らに数学を教えており、『坊つちゃん』に登場する数学教師「山嵐」のモデルこそ、隈本有尚その人だ。
そして、シュタイナーの人智学を日本に初めて紹介したのも、有尚である。
大正3年の有尚の著『天文ニ依ル運勢豫想術』は、畏友青木良仁先生によると、簡潔ながら極めて高度な内容で、昨今巷に溢れている占星術書とは比較にならぬ内容であるという。
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