永田徳本の墓~長野漢方史跡~
- 2014/12/26
- 18:15
永田徳本墓(尼堂墓地/岡谷市長地柴宮1)
永田徳本(1513?~1630?)と言えば、田代三喜や曲直瀬道三と並び「医聖」と称される室町から江戸時代初期の名医だが、其の真像は虚実入り乱れて謎に包まれており、正確な生没年もよく判らない。
三河の生まれとも甲斐の生まれともいい、全国を遊歴したが、甲斐で永く活動した為、「甲斐の徳本」と呼ばれ、「甲斐扁鵲」とも称された。
また、如何なる治療に対しても一服十六文(十八文とも)の決まった薬礼しか受け取らなかったことから「十六文先生」とも呼ばれたという。
田代三喜の門人とも、武田家の侍医だったとも様々な話が伝わっているが、どれも史実と信じる決め手に欠くし、永正十年から寛永七年まで生きたとされるのも齢百十八歳まで生存したことになり、俄かには信じがたい。
著書も『徳本翁十九方』や『梅花無尽蔵』など数多く伝えられているが、殆どが偽作とされている。
遊歴の後、下諏訪は岡谷の東堀に居を構え、没後は近くの尼堂墓地に葬られた。
残る徳本の墓は「籃塔」と呼ばれる屋根の付いた奇妙な形体で、一見すると神道墓にも見えるが、宗派問わず建てられる下諏訪特有のものである。
屋根がボコボコになっているが、これは「イボ取りの神様」として信仰を集め、墓石の破片でイボを擦るとイボが取れるとされた為であるという。
この尼堂墓地は、蒼流庵主人のような関西人が訪れると、真っ黒な墓石ばかりで不気味な感を受けること請け合いであるが、かつて近くで砥川石と呼ばれる黒色安山岩を産し、これを墓石に用いていた名残だそうである。
ちなみに、永田徳本は、大手製薬会社の社名の由来として、今日に「トクホン」の響きを留めてはいるが、徳本考案の薬方を製造している訳ではなく、直接的には何の関わりもない。
徳本翁碑(愛知県碧南市音羽町1)
徳本の生地とされる碧南市音羽町にある宝珠寺裏には、徳本稲荷と呼ばれる社があり、社の横には“徳本翁碑”と題した顕彰碑が立っている。
この碑を建立したのは、三河の磯貝天錫という幕末の人で、徳本の遺方で調剤して成功を収めたことから、昌平黌の儒官・塩谷宕陰(1809~1867)に撰文を依頼して建立されたものという。
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