伊藤鳳山の墓~愛知漢方史跡~
- 2014/12/27
- 16:23
伊藤鳳山墓(蔵王霊園/田原市田原町蔵王下)
伊藤鳳山(1806~1870)は、文化3年に出羽酒田の町医の家に生まれ、名は馨、字は子徳、通称を郷太郎・大三郎といい、鳳山・学半楼と号した。
江戸の朝川善庵(1781~1849)に養われて経学を学び、天保5年(1834)に養子となったが、2年ほどで離縁。
天保9年(1838)、田原藩家老渡辺崋山(1793~1841)らの推挙によって成章館の教授となり、同藩の学術振興に努め、家老渡辺崋山、藩医鈴木春山(1801~1846)とともに田原の三大山と謳われた。
天保11年(1840)に田原藩を離れ、京都で暫く過ごした後、嘉永2年(1849)に江戸へ帰り、四ツ谷で塾を開くが、元治元年(1864)討幕の機運が高まる江戸を離れ、再び田原藩に迎えられて、明治3年に同地で世を去った。
『孫子詳解』『学半楼十幹集』などの著書があり、『孫子詳解』は数ある孫子の注釈書の中でも特に高い評価を受けているものであるが、ここに鳳山を紹介するは、『傷寒論文字攷』の著書あるによる。
同書は、傷寒論中の文字を丹念に考究した研究書で、ここで取り上げられている承気湯の“承”の字が『易経』における天地否の爻辞“包承”を淵源とするという鳳山の説を粟島先生は好んで採用しておられた。
墓所は蔵王山の麓にある蔵王霊園最上段にある。
岡田虎二郎墓
伊藤鳳山墓所の右隣には、岡田式静坐法で有名な岡田虎二郎(1872~1920)の墓所がある。
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