並河天民の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/13
- 18:12
並河天民墓(清閑寺/東山区清閑寺山ノ内町11−1)
並河天民(1679~1718)は、延宝7年に山城紀伊郡横大路村(現在の伏見区横大路)で生まれ、名は良弼・亮、字は簡亮・伝亮・永亮、通称を伝之助・復一・勘介(勘助)といい、天民と号した。
今日、漢方家で並河天民(1679~1718)の名を知る者は少なかろう。
しかし、永富独嘯庵が『漫遊雑記』において、何度か其の名を挙げていることから、優れた医家であったのは間違いない。
浅田流漢方の大家・安西安周(1889~1969)は『日本儒医研究』において、天民こそ真の古方派の開祖であるとまで持ち上げ、寺澤捷年先生は『吉益東洞の研究』において「『傷寒論』(仲景方)の発掘という点では、並河天民を源とする、松原一閑斎から吉益東洞への流れが、今後はさらに評価されて良いと考えている」といい、天民に高い評価を与えているが、其の医方の水準を推し量る手掛かりになるものといえば、『天民遺言』など僅かな資料が残る位であるのは返す返すも残念でならぬ。
儒者としての天民は割によく知られている。
伊藤仁斎の門に入り、古義学を学んで頭角を現し、師の逝去後は古義堂の門人を仁斎の実子東涯と二分したというから、儒者として余程の実力と人徳を備えていたことが想像される。
また、蝦夷地開拓に関して一家言有り、三度も江戸に赴いて『開彊録』なる意見書を幕府に提出しているが、これは蝦夷地開拓論の嚆矢とされる。
しかし、早すぎた先見故かこの意見書が幕府に採用されることはなく、また数度に及ぶ仕官の要請を拒み、享保3年に赤貧の中、四十歳という若さで世を去った。
墓所は東山区の清閑寺に在り、同寺は高倉天皇とも縁深い真言宗の古刹であって、漂う風情は尋常ではない。
我が掃苔歴の中でも取分け清々しい印象を残している。
懐徳堂最後の教授並河寒泉の曽祖父に当たる。
並河天民講学所堀木舎阯(中京区東堀川通丸太町上る東側)
東堀川通のデイサービスセンター「キョートケアハウス」の入口に、天民の邸宅跡を示す石標があり「儒医並河天民講学所掘木之舎趾」と刻まれている。
同所は、かつて多くの儒者が鎬を削った場所で、伊藤古義堂や山崎闇斎塾とも目と鼻の先であった。
スポンサーサイト