中神琴渓の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/15
- 19:30
中神琴渓墓(光雲寺/左京区南禅寺北ノ坊町59)
門弟三千人ともいわれ、“近江扁鵲”と呼ばれた中神琴渓(1744~1835)は、延享元年に近江国南山田村で生まれ、名は孚、字は以隣、通称を右内といい、琴渓・生生堂と号した。
大津の医家中神氏の養嗣子となって医業を継いだ。
30余歳の時、六角重任の『古方便覧』を読んで深く感動し、以後吉益東洞に傾倒していく。
ただし、これは私淑であって、東洞の直接の門人ではないようだ。
大津では水銀を用いた梅毒の治療法によって多くの娼婦の病を治したという。
京都や江戸でも活躍したが、晩年は山城に隠棲して半医半農の生活を送り、天保6年に92歳歳で死去した。
没年を天保4年とする説もあるが、どちらにせよ当時としてはかなりの長命には違いない。
著述に『生生堂医譚』『生生堂雑記』『生生堂治験』『生生堂養生論』などがあるが、大半は門人による筆録とされる。
中神琴渓墓(綴喜郡井手町田村新田)
琴渓の墓所は、井出町の田村新田にもある。
この土地は、宮中に奉仕した謝礼として与えられたもので、琴渓は第五代庄屋としてここに移住し、その晩年を過ごした。
思うに、光雲寺には、現中神家の墓碑を含め、一族の多くの墓碑があり、琴渓自身が田村新田で没したことを考え合わせると、真墓は田村新田の方で、光雲寺の墓碑は詣り墓ではなかろうか。
とすると、田村新田の墓碑に刻まれた天保6年の没年説を支持したくなる。
スポンサーサイト