橘南谿墓(金戒光明寺/左京区黒谷町121)
橘南谿(1753~1805)は、宝暦3年に伊勢久居藩士宮川保長の五男として生まれ、名は春暉、字は恵風、通称を東市といい、南谿・梅華仙史と号した。
後に称した「橘」は妻の姓である。
久居藩儒佐野酉山(1740~1814)に学び、明和8年(1771)京都に出て儒者を志したが、生計のため医の道を選び、独学で
香川修庵・
吉益東洞の医書を読み、安永2年(1773)大阪に移って、修庵の養嗣子南洋(1714~1777)や
独嘯庵の高弟小石元俊(1743~1808)らと親しく交わった。
天明2年(1782)九州・四国を遊歴して蘭学に接し、翌年帰京して、小石元俊の総指揮のもと刑屍解剖を試みた。
天明2年の西遊および同5年の東遊は、のちに旅行記『西遊記』『東遊記』として刊行され、ベストセラーとなった。
恥ずかしながら、蒼流庵主人は、漢方の世界に足を踏み入れるまで、南谿といえば『東西遊記』(東洋文庫)の著者というイメージしかなく、医家であることすら知らなかったくらいであり、それほどまでにこの旅行記はよく読まれて、南谿を探検家として印象付けた。
なお、『東遊記』には、先に易儒としてご紹介した
松本愚山が序を寄せている。
医書には、
『傷寒外伝』
『傷寒論邇言』
『傷寒論分注』
『痘瘡水鏡録』
などがある。
橘南谿肖像(『医家先哲肖像集』藤浪剛一編より)
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