香川修庵の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/20
- 18:25
香川修庵墓(二尊院/右京区嵯峨二尊院門前長神町27)
香川修庵(1683~1755)は、天和3年に播州姫路で生まれ、名は修徳、字を太冲といい、修庵・秀庵・一本堂と号した。
元禄13年(1700)に上京し、伊藤仁斎に儒学を、後藤艮山に古医方を学ぶ。
儒医の典型であり、「儒と医の本はひとつである」として“儒医一本説”を唱えた。
いわゆる古方派である為、張仲景の医学を尊んだのは言うまでもないが、黄帝内経等の古医書を邪説として徹底的に排撃した。
『一本堂行余医言』や『一本堂薬選』など大部の著作が有名であるが、特に『一本堂薬選』は、修庵独自の実証主義に貫かれた本草書として知られる。
また、『一本堂行余医言』巻五の黴瘡編をみると、実に精密な記述をしており、従来の中国書にみる黴毒病理観にもとづいてはいるが、その精微な臨床的観察は、西欧の近代黴毒学に比肩しうると言われ、また黴毒の根源はみな妓女と交合することによっておこると述べている。
『世界黴毒史』の著者土肥慶蔵(1866~1931)は、香川修庵を真に徳川氏三百年間第一流の学者であると評価している。
また、香川修庵経験方として浅田宗伯が紹介した「治打撲一方」は、今日でもエキス製剤として販売されており、薬局漢方においても身近な存在であるのは嬉しいことだ。
墓所は嵯峨の二尊院に在り、先に紹介した伊藤仁斎ら伊藤家の墓所の傍である。
香川修庵肖像
上の肖像は、藤浪剛一氏の『医家先哲肖像集』に収められているものだが、どうも富士川游氏が誤認したものが誤って収載されたらしく、この肖像は山県大弐(1725~1767)のものらしい。
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