後藤艮山の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/22
- 18:45
後藤艮山墓(上品蓮台寺/北区紫野十二坊町33-1)
後藤艮山(1659~1733)は、万治2年に江戸常盤橋辺(東京都千代田区)で生まれ、名は達、字は有成、通称を左一郎といい、艮山・養庵と号した。
はじめ、儒学を林鳳岡に学び、医学を牧村卜寿に学んだ。
貞享2年(1685)京都に出て、独力で古医方を学んで医家としての研鑽を積む。
名古屋玄医に入門を乞うも、謝金の少ないことを理由に門前払いされた為、発奮して独力で古医方を学んだエピソードは有名である。
古方派の先駆として知られるが、『傷寒論』のみに固執せず、広く民間療法等も渉猟して、灸を施し、温泉療法も行った(特に城崎温泉を好んだ)。
また、熊の胃(胆)をよく用いたので、「湯熊灸庵」と人は呼んだ。
医名轟いて多くの門人を抱え、その中には後に古方派の大家となる山脇東洋や香川修庵らが居た。
百病は一気の留滞によって生ずるとする独自の病因論は“一気留滞説”として知られ、吉益東洞の“万病一毒論”と並んで非常に有名である。
また、当時の医家のほとんどが剃髪して僧衣を纏い、法眼、法印などの僧官を拝受していたのに対し、直言直行を重んじ、虚名を嫌った艮山は、髪を束ねて士人の服装をしたが、これを後藤流と呼んで多くの医家が追従した。
『病因論』『師説筆記』など多数の著書があるが、ほとんどが門人の手になるものと考えられている。
菩提寺である上品蓮台寺には、かつて十二の塔頭があったが、応仁の乱で荒廃して、現在は本坊と塔頭三か寺を残すのみである。
艮山の墓碑がある旧普門院墓地は、本坊と千本通を挟んで南東に位置しているが、普門院もまた現存していない。
同墓地には、金工家として有名な後藤祐乗(1440~1512)の墓碑もあるが、これは後藤さん違いで血縁ではない。
また、本坊北側の墓域には、今西進化論で有名な今西錦司(1902~1992)の墓所もある。
後藤艮山肖像(『医家先哲肖像集』藤浪剛一編より)
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