野間玄琢の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/24
- 11:15
野間玄琢墓(北区大宮玄琢北東町)
野間玄琢(1590~1645)は、天正18年に山城で生まれ、名は成岑、通称を玄琢といい、白雲老人・寿昌院と号した。
曲直瀬玄朔に李朱医学を学び、慶長10年(1605)医学典籍の代講をした。
岡本玄冶・山脇玄心・井上玄徹と共に、玄門(玄朔門下)四天王に数えられる。
同15年に法橋、元和3年(1617)に法眼へ進み、同9年には法印に上った。
また、元和元年、鷹ヶ峰に土地を拝領し、薬草園を造った。
隣接して鷹ヶ峰には本阿弥光悦(1558~1637)も居を構えており、玄琢は光悦と親交を結んだ。
寛永3年(1626)徳川秀忠の侍医となって江戸に赴き、隔年に江戸に伺候。
同13年、東福門院の病気治療に功あり、のち後宮に仕えた。
纏まった著書はなく、『群方類稿』という稿本があるくらいらしい。
廟所入口の碑
玄琢の墓所は、かつての拝領地内にあるのだが、場所が少し分かりにくい。
バス停の源光庵前と釈迦谷口との中間の曲がり角を北に進んだ住宅地の中にある。
玄琢が流祖である曲直瀬道三と師の玄朔を敬慕して建てた供養墓については以前ご紹介した。
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