名古屋玄医の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/26
- 18:21
名古屋玄医墓(浄福寺/上京区笹屋町2丁目)
古方派の始祖・名古屋玄医(1628~1696)は、寛永5年に生まれ、名は玄医、字を富潤・閲甫といい、丹水・宜春庵・桐渓と号した。
初め羽川宗純に経書を学び、のち医学を修める。
『内経』『難経』はじめ多くの古医書を読破したが、もっとも強い影響を受けたのは、明の喩嘉言の著『傷寒尚論』であり、ここに道三流こそが医学であった時代、“張仲景ルネサンス”ともいうべき「古方」の萌芽があったのである。
玄医の医術の基本は「まず虚を治し、そのあとで余を問う」ことにあり、それはそのまま主著『医方問余』の表題となっているが、これは玄医自身の多病弱体と無関係ではあるまい。
後年は麻痺により足腰両手不自由の身となったが、気力は衰えることなく、病客に応じる傍ら、多くの著書を執筆した。
私の習った先生は、晩年に玄医の『金匱要略註解』をテキストにした講座を持たれ、この書を大変高く評価しておられた。
他に、稿本であるようだが、『易経集注抄』なる書もあるらしく、興味をひかれる。
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