古林見宜の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/14
- 13:41
古林見宜墓(禅林寺/大阪市中央区中寺2丁目4−3)
大坂における名医の草分け的存在である古林見宜(1579~1657)は、天正7年に播磨国飾磨で生まれ、名ははじめ道芥のち正温、通称を見宜といい、桂庵・寿仙坊と号した。
祖父・父共に名医として知られ、幼時よりその薫陶を受けた。
京都に上って建仁寺に寓居し、曲直瀬正純(1559~1605)を師として金元医学を修めた。
その後、同門の学友・堀杏庵と嵯峨に学舎を開いた。
教育に当たっては明の李梃の著『医学入門』を第一の教科書として用いたが、これは我が国で同書が行われた初めとされている。
尾張に移ったり、はたまた黒田如水の招聘で博多に行ったりもしたが、後半生は大坂に落ち着き、聚楽町(現在の中央区粉川町1丁目)に居を構えて医を業とし、門人の教育に尽力した。
医案集や伝わる逸話を見る限り、医術も人柄も中々豪快な人物だったようで、虚飾を嫌って法印の位も固辞した。
大正13年には従五位に叙せられている。
著書には、
『日記中棟方』
『速効方』
『撮要方』
等がある。
門下から松下見林(1637~1703)らを輩出し、稲生若水(1655~1715)の父・恒軒(1610~1680)もその門に学んでいる。
禅林寺墓地には他にも古林家の膨大な数の墓石が並んでいるが、御子孫は健在で、今も大阪で開業されているらしい。
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