北山寿安の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/17
- 18:25
北山不動(太平寺/大阪市天王寺区夕陽丘町1-1)
今は太平寺の風吹不動となって民衆の信仰を集める北山寿安(??~1701)は、名を道長、通称を寿安といい、友松子・仁寿庵・逃禅堂と号した。
明末の国乱を避けて長崎に亡命して来た商人馬栄宇と長崎丸山の遊女との間に混血児として生まれ、医学を隠元禅師の弟子の帰化僧戴曼公(1596~1671)や小倉の原長庵(岡本玄冶の高弟)に学んで後、名を北山寿安と改め、大坂船場の南久太郎町で開業。
富貴の患者で謝礼が少ないと責めて受け取らず、薬題を払えぬ貧者には薬どころか米銭をも与えるなど清貧を貫く生き方故に自身豊かな暮らしではなかったようだが、秀逸な医術と父親譲りの生薬の調合法を広く教えたので、これを習う為に全国の薬種商が寿安の周りに住み着き、一説にはこれが現在薬問屋街として栄えている道修町の始まりとも云う。
寿安は元禄14年、六万体の太平寺に、かつて紀州侯の病を治した謝礼の受け取りを断って代わりに持ち帰った庭石を不動明王の石像として安置し、この不動を墓標として自身は下に入定するという医家としては数奇な人生の最期を遂げた。
この不動尊の像背の火炎が、いかにも風に吹かれる様であるというので、いつしか風吹不動と呼ばれるようになったが、第二次大戦の戦災を被り、現在は此の背炎を見ることは出来ない。
かの浅田宗伯は北山寿安を尊崇しており、自身の墓碑が不動明王像であるのも、寿安にあやかったものという。
なお、寿安の孫の北山寒厳(1767~1801)は、山水人物に秀でた画家で、門下から谷文晁(1763~1841)を輩出した。
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