小原桃洞の墓~和歌山漢方史跡~
- 2015/02/19
- 18:55
小原桃洞墓(大恩寺/和歌山市吹上5丁目1−5)
小原桃洞(1746~1825)は、延享3年に和歌山で生まれ、名は良貴、通称を源三郎といい、桃洞と号した。
京都で吉益東洞に学び、本草学を小野蘭山に受けた。
和歌山藩医となり、桃洞の学殖を愛した藩主徳川治宝(1771~1853)によって、寛政4年(1792)には、医学館本草局の主任に任ぜられた。
また、幕命を受けた師蘭山に随行し、また、自ら幕命を受けて各地に採集旅行を行った。
天保10年(1839)に紀州藩が刊行した『紀伊続風土記』の物産篇を担当したのも桃洞である。
桃洞の孫に小原蘭峡(1797~1854)がおり、祖父より医学・本草学を学んで、桃洞に同行して熊野・河内などの山で採薬を行い、『桃洞遺筆』を編集している。
昭和55年には蘭峡による『訂字標註傷寒論』が出版科学総合研究所より復刻された。
蘭峡の墓も大恩寺にありと記載を見るが、無縁処理されたものか、私の調査では発見出来なかった。
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