村井琴山の墓~熊本漢方史跡~
- 2015/02/20
- 18:55
村井琴山墓(来迎院墓地/熊本市西区春日6丁目8−8)
村井琴山(1733~1815)は、享保18年に肥後藩の医学校再春館教授村井見朴(1702~1760)の長男として生まれ、名は杶、字は大年、通称を椿寿といい、琴山・琴斎・原診館・六清真人・清福道人・子琴と号した。
父見朴の没後、京都に出て、はじめ山脇東洋に学び、のち吉益東洞の門人となった。
数か月指導を受けた後、一旦郷里に帰るが、明和6年(1769)に再び上京し、東洞の下で学んでいる。
二人の子弟愛を物語る有名なエピソードに、琴山帰郷の折、師東洞自ら淀口まで見送りに出向いて「医道世論を指導する、関より西は君に一任して不安なし」の激励の辞を贈ったという逸話があるが、東洞が如何に琴山を高く評価していたかが窺われる。
琴山も師の期待に応えるべく、九州各地に『傷寒論』の医方を説いて廻り、その著述も『読類聚方』『薬徴続編』『方極刪定』『医道二千年眼目編』など、東洞流古医方の補完・継承・発展を強く意識したものである。
また、医術の秀逸は言うに及ばず、秋山玉山(1702~1764)に師事して荻生徂徠の古文辞学を修め、詩文を能くし、琵琶や琴にも親しんだ。
琴山が工を起こした村井家の別荘跡は、現在「叢桂園公園」として整備され、風情ある庭園が開放されている。
かつて、頼山陽はじめ多くの文人が訪れたという。
村井琴山肖像(『医家先哲肖像集』藤浪剛一編より)
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